江戸東京たてもの園★★★★*

【評価】4.5(作品4.5/展示4.5/味4.5)


都立ミュージアムめぐり、第5弾。七草粥も食傷気味な成人の日、東京・小金井の江戸東京たてもの園へと出かける。



江戸東京たてもの園は1993年に開園した。都内に残された江戸時代から昭和初期にかけての文化的価値の高い建造物を中心に移築し、復元・保存・展示する施設である。お屋敷から商店建築、お風呂屋さんまで、27の建物が野外に展示されている。ヒトは靴を脱ぎ履きして、移築された建物の中に実際入りみてまわることができる。さらに、ここのそばにはいまや世界ナンバーワンアニメプロダクションとなったスタジオ・ジブリがあるそうで、宮崎氏はたてもの園でインスピレーションを受けて作品を作った…という話も聞く。


吹抜のすばらしい三角屋根の前川國男邸など実際に触ることができるし、モダニズム・ジャポネの空間感覚がおのずと見えてくる。また高橋是清邸では赤い座布団に腰かけて庭園を眺めながら蕎麦+ビールをすする。ある意味で理想的な建築展のありかたである。



表札の字体がカワイイ。建築家氏がお書きになったのだろうか。


江戸東京たてもの園は桜の時期ににぎわう都立小金井公園にある。日比谷公園の4.7倍、上野公園の1.4倍の広大な敷地で、迷子になったら帰る場所はない。交通の便や周囲の店屋を考えるとお花見するなら場所取りが大変でも井の頭公園+いせやのほうが便利である。


ところで、なぜそもそも都立の建築博物館の敷地として、中央線の陥没地帯・東小金井の都立小金井公園が選ばれたのか。都内のお屋敷や商店建築を移築するには、都下・武蔵野の広大な平野がウテツケ…という物理的理由があるだろう。しかし、それ以上に、他でもない小金井公園ゲニウスロキ(毛に薄濾器)は、「江戸東京たてもの園」の計画をわが土地へと引きずり込み、死に瀕した建築を記念碑化させてしまう小金井公園の怨念じみたパワーをもつのであった…。というか、小金井公園は移転・保存場所としての「たてもの園」をもたざるをえない運命を因縁的に持ち合わせていたのである…。


そもそも小金井公園の前身は、昭和15年の「皇紀2600年」記念事業で計画された「小金井大緑地で」ある。戦後、東宮仮御所に使用され、さらに農地解放で4割の敷地が失われたが、29年に都市公園として開園された。


皇紀(神武暦)とは神武天皇の即位を紀元前660年とし建国年とする日本独特の暦である。施行は明治6年1873年)1月1日。この計算で行くと1940年(昭和15年)は建国2600年にあたり、その祝賀として「皇紀2600年」イベントが様々なかたちで催された。東京では万国博やオリンピックが企画されたようであるが、戦局の悪化でそれどころではなくなり実現されなかった(幻のローマ万博(ムッソリーニ政権下)のようなものである)。



戦時下の国策イベントから生まれた小金井大緑地。この年、まさに「皇紀2600年」にあたる1940年、皇居前広場で「皇紀2600年記念式典」が行われ、その仮設パヴィリオンが翌年41年に小金井大緑地へと移築されたのである。それこそが、現在、上記写真に写る「たてもの園」のエントランス+ビジターセンターである。


緑地に持ち込まれたモニュメントは「皇紀2600年」を叫び戦争侵略の道を突っ走るニッポンの、江戸の終焉から東京の崩壊へいたる時代の記憶を刻みこむ。旧光華殿と呼ばれるエントランス+ビジターセンターは「仮設」にしてはあまりにも立派なところが式典の国家的重要性と時代の空気感をしのばせる。それにしても、このエラソウな門構えがたてもの園ができるまでどんなカタチで残されていたのか、チョット知りたい気はする。移築と同時に、パヴィリオンのいかめしいパースペクティブを決定づける正面の参道?は作られていたのだろうか。


ここで、「江戸」と「東京」について考えてみる。


江戸東京博物館都営大江戸線など、都政においては「江戸」と「東京」は並列される場合が多い。そこには「江戸=東京」のレトリックが潜んでいる。それではホントに「江戸」は「東京」なのだろうか。


大江戸線は維新前の「江戸」の範囲をグルッと囲んでいる…そう言われると、「江戸=東京」ないしか「江戸・東京」は、地理的概念を設定するには正当性がなくもないように思われる。


しかし、「江戸」「東京」という地名は目に見える地理的境界線に限らない。地名には多かれ少なかれ文化的なコノテーションやイメージが付随する。特に「江戸」や「東京」は、例えば「江戸情緒」とか「東京ファッション」のように形容詞的に使用される用例は無視できないほど多いのである。


昭和から平成へと年号が変わり、地下鉄「大江戸線」という名称を始めて聞いたときに感じた違和感を思い出す。イマサラ思えばその名称に「禁じ手」を使いなすって…というどこか不安な印象を抱いたからである。


「江戸」が鎖国から生まれた都市文化をもつ地域である一方で、「東京」は、地理的に「江戸」を含みつつ、全国から集まった地方出身者が西欧世界に向けて発進するために作り上げた近代都市である。「江戸」と「東京」は文化的な基盤や都市としての性質を異にする部分も小さくはないだろう。


むしろ、現代の東京にとって、「江戸」とは文化戦略としてのレトリックである。浮世絵に描かれた「江戸」の町を、実際には混沌の塊のような「東京」に重ねあわせ、「美しい東京」のイメージを作りあげる。言葉の力は偉大である。


「江戸」と「東京」が単純に割り切れない関係にあること。地名のレトリックが戦略的に使われる例は枚挙にいとまがない。例えばヨーロッパ文化においてはRomaはまず「古代ローマ」帝国というゼッタイ的なイメージをもつ。そのため「(ローマ)帝国復活」のスローガンで侵略が行われ続けてきた。歴史は繰り返すものだけど、渦中にある当事者が歴史をみることはできない。だけど、地名のレトリックと政治性の歴史を振り返ることはムダではないだろう。歴史観のなさがニッポンの歴史観の特徴…なのかもしれないけど。若い国だから。


「建築」という歴史と文化を背負うモノにより見せてくれるのが江戸東京たてもの園である。江戸時代の建物は農家が中心、明治から昭和にかけての個人邸や商店が展示される。江戸時代に建てられた街中の邸宅やら御奉行所やら、移築できるかたちで残っていたら楽しかろうに、それはいかにもムリそうである。「江戸」の町は「東京」により徹底的に破壊されたから…というより、木造家屋の建てこむ江戸は火災の街で、防火のために街は不燃化されねばならなかったから…などと色々と理由はありそうである。


石や煉瓦造りのヨーロッパの街だと築200年のアパートなんて平気で存在するけれど、東京に建っていた100年前の住宅(もちろん木造)を体感するというのはなかなか貴重だ。木造住宅に入ってみると内部の作りがすべて小さく見え、日常のスケール感が異化される。