『美女と野獣』の試写会に行きました。

先日、『美女と野獣』の試写会に行ってきました。
CG技術を多用したフランスの実写版映画で、フランスの映画美術の粋が楽しめる感じでした。
11日1日(土)から公開だそうです。
http://beauty-beast.gaga.ne.jp/

主演は、野獣(王子)役がヴァンサン・カッセル、美女のベルがレア・セドゥ、パパはアンドレ・デュソリエ、そして王子のかつての妻役としてドイツ人のイボンヌ・カッターフェルト。

ヴァンサン・カッセルは、きっと21世紀のジャン・レノ的な存在なのか、それともフランスのジョージ・クルーニーみたいな感じなのかと思っていたのですが、このひとの独自性は中世のお城の坊主とか野獣とかがやけに似合う顔立ち、というところでしょうか。『ジャンヌ・ダルク』のイメージも強いのでしょうね。


英仏合作映画。
クリストフ・ガンズ監督、脚本。ガンズは名門・IDHEC(旧国立高等映画学院、1988年にLa Fémisに継承)出身で、80年代には映画評論家としても活動していたようです。

ヌーヴェルヴァーグ以来のフランス映画の前衛的な流れが、21世期にはいり、ガンズのような立場の監督が、ハリウッドを仮想的とするような商業映画世界のの中でどのように作品づくりを行うか、と考えると、今回の『美女と野獣』がひとつの典型的な解答を教えてくれている気もします。

フランスの映画人にとっての、自負であり、強みは、映画誕生以前から連綿と続く“芸術と文化の長い歴史”である…というのは、いまさらツマンナイ解答ではあるのですが、だけどやっぱり、自分たちの物語(美女と野獣)を自分たちの土地で再現するということは、ハリウッドの現場からは手が届きそうで、やっぱり手が届かない現実であったりします。

ハリウッドの現場をすべてフランス人で固めたとしても、製作という行為には、現地アメリカの様々な思惑が様々な段階で働き、決定づけていきますからね。


コレを見ると、フランス人が広く共有するであろう中世、ゴシックのイメージが視覚的によくわかる気がしますので、ヨーロッパの美術や建築に興味がある方にはオススメです。フランス的なCG技術と美術世界の構築が、針独活映画のそれに比べるとだいぶあか抜けた感じがします。

『美女と野獣』の試写会に行きました。

先日、『美女と野獣』の試写会に行ってきました。
CG技術を多用したフランスの実写版映画で、フランスの映画美術の粋が楽しめる感じでした。
11日1日(土)から公開だそうです。
http://beauty-beast.gaga.ne.jp/

主演は、野獣(王子)役がヴァンサン・カッセル、美女のベルがレア・セドゥ、パパはアンドレ・デュソリエ、そして王子のかつての妻役としてドイツ人のイボンヌ・カッターフェルト。

ヴァンサン・カッセルは、きっと21世紀のジャン・レノ的な存在なのか、それともフランスのジョージ・クルーニーみたいな感じなのかと思っていたのですが、このひとの独自性は中世のお城の坊主とか野獣とかがやけに似合う顔立ち、というところでしょうか。『ジャンヌ・ダルク』のイメージも強いのでしょうね。


英仏合作映画。
クリストフ・ガンズ監督、脚本。ガンズは名門・IDHEC(旧国立高等映画学院、1988年にLa Fémisに継承)出身で、80年代には映画評論家としても活動していたようです。

ヌーヴェルヴァーグ以来のフランス映画の前衛的な流れが、21世期にはいり、ガンズのような立場の監督が、ハリウッドを仮想的とするような商業映画世界のの中でどのように作品づくりを行うか、と考えると、今回の『美女と野獣』がひとつの典型的な解答を教えてくれている気もします。

フランスの映画人にとっての、自負であり、強みは、映画誕生以前から連綿と続く“芸術と文化の長い歴史”である…というのは、いまさらツマンナイ解答ではあるのですが、だけどやっぱり、自分たちの物語(美女と野獣)を自分たちの土地で再現するということは、ハリウッドの現場からは手が届きそうで、やっぱり手が届かない現実であったりします。

ハリウッドの現場をすべてフランス人で固めたとしても、製作という行為には、現地アメリカの様々な思惑が様々な段階で働き、決定づけていきますからね。


コレを見ると、フランス人が広く共有するであろう中世、ゴシックのイメージが視覚的によくわかる気がしますので、ヨーロッパの美術や建築に興味がある方にはオススメです。フランス的なCG技術と美術世界の構築が、針独活映画のそれに比べるとだいぶあか抜けた感じがします。

メモランダム:建築・都市・映画に関して(3)

物理的レベルで言えば、かつてはキャメラが作り手側にあり、スクリーンは観客側におかれていた。
現在も、物理的にはそれは変わらないのかもしれないけれど、たとえばYoutubeの映像のように携帯端末で撮影された映像の多くは、撮り手もまた観客であり、印象的にはキャメラがかつてあった場所に、スクリーンが置かれているようだ。
現代において、生きられた家とは、スクリーン空間化された日常の集積である。

メモランダム:建築・都市・映画に関して(2)

ほんの少し前まで、映画もテレビもサイトスペシフィックなメディアであった。
かつて映画館は動画をみることが唯一可能な場であり空間であったし、テレビ番組は、室内に設置された受信機の前でみるものであった。リュミエール兄弟が19世紀末にパリのカフェに人を集めて短いフィルムを流して以来、動画は長い間サイトスペシフィックな表現であった。テレビが登場すれば、テレビ受信機は家庭の中心(ホワイエ)となり、文化の中心となった。

そんなサイトスペシフィックな映画、映画館の時代を越えて、21世紀において、動画は、私たちの生活のあらゆる場所に偏在するようになった。スマートフォンYou Tubeの映像を眺め、子供の成長を前にして何気ない動作を撮影してみたりもする。子供や若者は街に出て携帯型ゲーム端末機を持ち歩き見知らぬ相手とゲ交信する。電車の車内では電光掲示板にその日のニュース映像が流れ、高速道路上には渋滞情報が流れている。怪我をして病院にかけこめば、待合室の壁にかかった液晶画面に待ち人数が表示され刻一刻と変化している。インターネットの普及と回線の高速化、液晶画面の低廉化とノートブックやスマートフォンなどの携帯端末の普及は、動画の偏在化に拍車をかけた。

こうした液晶画面の普及は、都市のスクリーン空間化である。私たちはもはや、場所や空間にしばられることなく、どこにいても物語が見られるようになった。

メモランダム:建築・都市・映画に関して

映画空間と建築空間と都市空間を越境する方法論をさぐろうと、英語圏での活動がさかんだ。そこではどんな言説がとびかっているのか。

以下はメモランダムに。

ジュリアーナ・ブルーノにならっていえば、映画は地理学的冒険であり、空間の旅である。映画と、建築と、都市の関係は、その空間的存在原理が根本的に異なる。動画における建築、都市空間はナラティブな空間であり、スクリーン上にあらわれ、すぐに消える。また、現実の建築と都市が創出するような物理的、社会的、経済的機能をもちえない。キャメラ、スクリーンを通した映画空間はあくまでイリュージョンであり、現実を忠実に描写している保証はまったくない。
それでも、私たちは映画を見るときに、自分自身のドラマを生きているかのように、スクリーン上の建築・都市空間を生きている。

カミュ原作『最初の人間』の試写会

ジャンニ・アメリオ監督『最初の人間』Le premier homme, 2012

8月某日。ほぼ5年ぶりに映画の試写会に出かける。パリにいる間もご厚意で試写会の案内を東京の自宅にいただいていて、もったいない思いをしていた。お気遣いをまことにありがとうございます。

ジャンニ・アメリオ監督『最初の人間』。仏・伊・アルジェリア3国合作。2011年にトロント国際映画祭を始めいくつかの映画祭でプレミア上映された後、2012年4月にイタリア公開。

まだ一般公開までは時間があるので公式サイトもパンフレットもないようですが、12月から岩波ホールで上映されるそうです。

フランスがお金を出し、イタリアが人材を提供し、アフリカが場所を提供するというある種のEU的というよりローマ帝国的世界観の縮図だ。経済的に苦しい南欧は、お金は出せないけど才能は輩出している。それはなにも映画に限らない。スペインやポルトガルも、たとえば建築やらスポーツの分野では世界の流れを牽引している。逆にフランスのように芸術的才能は自前では作れないけど、ひとを集めてプロデュース、ブランディングして金儲けをするのが得意な国もある。

原作は未完の遺作となるアルベール・カミュの同名の小説。カミュが1960年に自動車事故でなくなった際に、事故現場の草むらに投げ出された黒皮のかばんにしまわれた大学ノートに書かれいた。小説家を主人公とするカミュの自伝的な内容であった。未完の遺作がカミュの実の娘の協力などで数年前にフランスで出版され話題になった。

原作はフランス語で、映画版も俳優、女優もフランス人でフランス語とアラビア語で会話がなされるが。イタリア人監督ならではの石灰質の硬質さが映画世界にたちこめていた。人物たちをとりまき条件づけるアルジェリアの海と砂漠の関係が体感的に表出し、未完小説を原作とする上で描ききれなかったであろうナラティヴを支えている。原作ものの映画で陥りがちな散漫さがこのフィルムではある程度回避されているように見えた。

主人公のジャックはアルジェリア出身のフランス人で、現在は売れっ子小説家としてパリで家族と暮らす。1960年、アルジェリアがフランスからの独立運動にゆれる中、出身校であるアルジェリア大学の学生たちの要請でひさびさに帰郷する。ジャックは生家にいまはひとりで生活する老いた母を訪ねてともにすごすうちにみずからの子供時代を回想しはじめる。
生後半年でアルジェリア移民1世の父親はマルヌ戦線で戦死したため(カミュは実際には移民3世であったという最近の研究があるそうだ)、子供時代をアルジェリアの厳格な母方の祖母の家で、母親、叔父とともに暮らし、貧困にあえぎながらも快活な少年として成長した。学業優秀のため小学校の先生の勧めで奨学金を得てリセに進学できることとなった。

映画は現在と過去のアルジェリアの記憶を交錯させる。映像に映しだされる北アフリカの石灰質のかたさと大地からたちのぼる草いきれの豊穣さは、(じつは正確にどこで撮影されたのか、資料を見る限りは分からなかったのだけれど)、フランスよりもむしろアメリオ監督の故郷である南イタリアカラブリアのそれに近いかもしれない。またネオリアリズムの伝統は戦前、戦後を通じたアルジェリア問題を描くすべを、『小さい兵隊』のゴダール的なフランス的自嘲とシニシズムを抜きにしても、もっていた。知らないこと、分からないことはかけないしつくれない。プロデューサーのブリュノ・ペズリーのアメリオ起用はまず正解であっただろう。

『異邦人』におけるアラブ人とフランス人の近さと遠さ。海と砂漠が隣あう拒絶と包容が自然界を覆う。二律背反のようでいて、実際には両者が絶妙に微妙にとけあっていて、それは客観的には「共存」なのだろうけど、実際には当人たちにしか分からないような関係性の、そこから微妙に表出したもやみたいなものが、うまく画面にやきついていた。

なんというか、非説明的な要素によるある種の空間の実現の如何が映画、にかぎらずありゅる芸術作品の出来、不出来を左右すると思うし、この作品は、大傑作とまではいえないにしろ、自然がかいまみせる野生のような、そうしたある種の空間の片鱗がうまいこと定着されていたように思えた。

あえて難癖をつければ、大人になった主人公ジャックと老母が、しわの具合など、フィジカル面で大して年齢が換わらないように見えることが気になった。調べてみると、俳優と女優の実年齢は一緒のようで、これだと画面的にはやっぱり無理が大きい。
それと子供たちが貧乏にみえないこと。着ている服はいまどきのブランド子供服のようで、というよりいまどきのブランド子供服はこの時代の子供服をモデルにしているのだろうけど、子供服のモデルにしか見えない。営業上の理由などあるのだろうけど、リアルさが減じられているところが残念。

ごく個人的な感想とすれば。少年ジャックが動き回るにつれ、家に残してきた愛息のすがたと重なり、恋しくなり、ママも早くおうちに帰るからね…と思ったしだいです。こどもを産んでからはじめてみた映画が佳作でなんだか嬉しかった。

ヴァンサン・カッセル最新主演作『Le Moine』

革命記念日の14日から週末にかけての連休は部屋にこもり仕事漬け。最後の日曜日に社会復帰をかけて、家族とレ・アールの映画館にでかけた。

☆★☆★☆★☆★

ヴァンサン・カッセル主演の封切映画『Le Moine(ル・モワン/僧侶)』。先日、ラジオのフランスアンフォでカッセルのインタビューが流れていた。フランスでよく見るな…と思っていたら、そういえばこの人はフランス人だった。『ブラックスワン』のコレオグラファー役など個性派の印象が強い。

17世紀スペインの荒野に立つカプチン派修道院を舞台に、順調に出世し誰からも崇敬される神父(ヴァンサン・カッセル)が出生の謎と煩悩に苦悩し運命に巻き込まれ悲劇的な最後をとげる心理劇。原作は18世紀のゴシック小説家マシュー・グレゴリー・ルイスによる1796年の同名小説。

ウィキペディアによれば、この小説は3度映画化されている。1972年にブニュエルの脚本で映画化された後、90年にイギリスでリメイク版が製作された。禁欲と情欲の相克がもたらす悲劇は南欧のカトリシズムにおける神学以上の最大のテーマだと思うし(神との関係は免罪符で解決される程度なので)、映画の題材としてももってこいだ。映画監督にとっても、スクリーンにとっても、魅力的な題材なのだろう。

最新版の監督はフランスのドミニク・モル(Dominik MOLL, 1962-)。パリの国立高等映画学院(IDHEC)を出て1994年に監督デビュー。前作『Lemming』ではシャルロット・ゲーンズブールやシャルロット・ランプリングらスター女優が出演し、2005年カンヌ映画祭コンペ部門のオープニングをかざった。

オープニングで、荒野の修道院のスタジオ模型を背景に、“Le Moine”の朱色のタイトルが浮かび上がる。初期カール・ドライヤー映画を思わせるレトロな雰囲気。人気俳優ヴァンサンが荒野をさまようところなどパゾリーニを髣髴させるし、この監督、きっと映画の好みが自分と似てるだろうし話が合うかもな…と思った。学生時代にドライヤーやブレッソンやら浴びるように見て映画についてヤンヤと議論しながら、「俺の手で失われた時代の映画を再現したい…!」という思いを抱きながら企画を手に入れた…という背景を勝手に想像した。映画愛好家が多かれ少なかれ抱く欲望の実現がスクリーンに投じされている気がしたからだ。その是非はともかくとして、映画の完成度を見れば、映画製作者としての力量と映画青年的な思い込みがどうもかみあはない。

作品として大きな欠陥はないと思うし1時間40分で過不足なくうまくまとめていると思う。国立映画学校で若い頃に映画的エリート教育を受けた監督のうまさだろう。

しかし、単なるレトロ趣味と切り捨てる批判が出るなら、それを抗す論点として、たとえばいまが旬のヴァンサンを主役に据えているところや、セックスや殺害のシーンを暗示にとどめて安易な衝撃映像に頼らない品のよさ、という批評の本質からややそれる点しかみあたらない。

根本的な問題は、きっと、監督の素養と物語のテーマにずれがあることだろう。物語のテーマである修道僧の肉体と精神の乖離という古典的な問いかけに監督や脚本家がどこまで自分の存在に接近できたか。それを考えて作品を眺めていると非常に心もとない気がした。南欧的な自然と人間、宇宙と肉体の関係性、という深遠なテーマをナラティブとしてどのように処理するか。切迫した問題意識も関心も欠落しているため、切りこむナイフに鋭い切れもないし切りこむ深さも足りない。全体的にイーヴンにできている分、全体的な物足りなさを残している。

そんな中で俳優陣はしっかり仕事をこなしてがんばっている。それでも、どうも、制作者側が、昔の巨匠たちの映画のイメージに安易に依存するのをよしとしているところが気になるし、彼らの現代的な解釈、創造性がみられないところがこの映画の最大の欠陥だろう。

たぶん、物語の核にある情念のレベルの抗し難い煩悩や宇宙的な意思に左右される運命という次元が、監督にとっては遠いままであったことが原因にあるのかもしれない。たとえば、乾いた自然の中にたつ修道院やカラスの映像など、象徴的なナラティブを成立させる重要な映像が、かなり安易に、スタジオ撮影もしくはCG処理されている点は、…モルさん、これでよいと思ってるの?…と問いただしたくなった。制作側にしてみれば、そんな表層的な表現や記号性が「現代性」と主張するかもしれないが、CGの人工的な質感と相性のよいジャンルや表現とそうでないものがあることは製作者として自覚すべき。

映画においては表現の甘さは表現の奥行きをころしてしまう。表現者としての詰めの甘さが作品のしあがりを台無しにしていのは明らかだ。

ヒッチコックのようにスタジオに箱庭と観察のためのキャメラで完全な人工世界をつくりあげてほしいし、それはそれで技術的に解決可能だろう。モル映画だと、上記の象徴的シーンが、ロケで撮り忘れた(もしくは撮れなかった)→スタジオに模型を並べて撮影→編集でつけたし…?現実はそんなに簡単でないだろうけど、、。

観念的なものいいかもしれないが、フィルムが自然や空間を成立させる知覚を越えた知覚を記録できるある種の受動性が「映画」に残された強みだ。人間の知覚でできあがったCGは人間の知覚世界を越えることはできない。結局は現時点で知覚は環境的な閾に幾層も限界づけられているからだろう。

知覚を対象とする表現者が、そこに自覚的であるかないか、つまりは自分の表現がどこまで切り詰められえるか、追及し続ける能力は創作者の根本的な資質にかかる。資質があれば天才だしなければただの人で、たぶんモル監督は後者だろう。結局はこの監督、天才肌の監督がすきそうだが本人は天才肌ではないのだろう。このテーマはあまりにこの監督には手に負えない感じがする。それはそれでよいと思う。天才なんてそうそう出てこないほうが世の中健全なものだ。

☆★☆★☆★☆★

ならば、もっと建設的に考えよう。お悩み相談的に、モルさんが毎年新作を発表できる、スピルバーグとは言わずとも、フランソワ・オゾンくらいの人気モノに出世するにはどうすればよいだろうか(前作『Lemming』でスター女優を起用しながら今回作発表まで6年かかっているところは、諸事情は知らないけれど、フランス映画って大丈夫なのかなー、とは感じる…)。

回答としては、これまでに習得したまっとうな技術を生かし、自分が実感として理解しうるテーマや、自分の素養にあわせたジャンルを、背伸びせずに、自分をごまかさずに選択するように心がけること。

モルさんの個人的好みは古典的な不条理な情念系心理劇にあるのかもしれない。しかし、本来身の素養は別のところにある気がしてならない。「俺ってアーティスティック!悩みも多いです!」というセルフイメージをかなぐりすて、もっと軽い、多少くだらないタッチのコメディ系ホームドラマが学園ドラマを手がければ、俺ってアーティスティックなインテリ…的な自意識も自虐的な悲哀あるスパイスとして働くだろう。もしくは『真珠夫人』や『娼婦と淑女』のようなドロドロ系ソープオペラもいいかもしれない。あれはかなりテクニカルなパワーが必要だし、モルならいける。どんな仕事もくだらないとはき捨てずに映画作りにまい進すればそのうち佳作を生み出すだろう。他人事は偉そうに書けるからね…。

ちなみに、そもそもスペインを舞台にしてみんなフランス語を話しているというのもどうなんだろう…と思った。けど、それってベルバラの国から来た日本人に言われたくないよ…と一蹴されそう。