国立新美術館・開館記念★★★

国立新美術館の建築 【評価】3/5

「日本の表現力展」 【評価】1.5/5 (作品2 キュレーション1)

「20世紀美術探検展」 【評価】3.5/5 (作品4 キュレーション3)

黒川紀章展」 【評価】3.5/5 (作品3 キュレーション4)



****


国立の「貸し」美術館である「国立新美術館」が本日ついに一般向けに開館…!ということで朝から乃木坂まで行ってきた。六本木地区の開発に国立施設が介入することで、六本木、ひいては日本美術の地勢図は変わるのだろうか…。


トホホな連続写真でスミマセン。。



美術館は乃木坂駅の6番出口から接続する。白が基調の波型のパーティションで仕切られたエスカレーターをのぼると美術館に出る。開館前からイメージ・キャラクターとしてメディアに度々取り上げられてきた波打つガラス・ファサードの建築。


内部はさながら体育館のようである。曲線的なガラス・ルーバーのファサードが印象的である。とはいえ、写真ばえはよくとも、ホールも展示室も大雑把な感じ(公共建築によくあるパターン)。失敗はないけど空間的に質(湿)感がないのかも。「公募」美術館として、作品の搬入→審査→展示を効率的に行えるバックヤードシステムが特色なのだそうである。

2階のカフェ。

ルーバーのシステム。


国立新美術館の周囲には森美術館六本木ヒルズ)と、今後完成する東京ミッドタウン内のサントリー美術館やデザインミュージアムなど、美術館施設が立ち並ぶ。これら六本木地区のアート施設を相互につなげる陸上のアクセスがない…これからできるのだろうか。もっと「アートの街・六本木」のコンセプトを前面化し、さらに近隣の施設との相互のアクセスを明確化するような案内表示を充実させれば六本木の新開発ももっとオモシロイモノになるんじゃないかな…と思う。


ということで六本木の地理的範囲を広げる為に、帰りは美術館裏側に出て、乃木坂→青山墓地→表参道→明治神宮まで歩いてみた。




初日は3つの企画展が開催されていた(公募展は4月から)。3つの展覧会をまわり、最後にみた「黒川紀章展」の展示の最後の壁には、紋付袴姿の建築家氏が宇宙的な背景の中にたたずむパネル写真が飾られ、思わず世界がガラガラガッチャーン…と変貌するような衝撃が残った。それぞれ感想はあるけれど、やっぱり国立新美術館の主役は「黒川紀章」である。


ところで「黒川紀章」とは誰か?


70年代以降に生まれ育ったニンゲンにとって「黒川紀章」はそれほど自明ではない。建築に興味があれば、60年代本の文中に「メタボリズム」という言葉をたまにみかけ、その横にある人名、という印象が強いかもしれない。山の手線・新橋あたりから見たあのフシギな「中銀カプセルタワービル」の設計者…ということまで知っていれば十分である気もする。


ところが親の世代に言わせると、「黒川紀章」こそが「ミスター・建築家」なのである。野球選手といえば長嶋茂雄…みたいなものである。ジャンルとしての美術や建築に興味がなくとも、一般庶民の誰もが知っている、そしてイメージする「建築家」がサングラスをかけたブラックスーツの、そして大女優である若尾文子の夫・黒川紀章であった。60年代の「建築家=サングラスとブラックスーツ」は90年代における「建築家=立ち襟シャツ」のイメージと好対照だろう。ちなみにキショウ氏はワイドショーなどにも出演することがあったそうだから、イマドキの建築家像から考えればチョット意外感がある。


黒川紀章は戦後の東大・丹下研究室から70年代にかけての、特に60年代初頭にブームとなった「メタボリズム」の潮流から頭角をあらわした。そもそものきっかけは1960年に東京で開かれた世界デザイン会議である。欧米からモダニズム建築家たちが集まることになり、その受け皿になったのが丹下研究室出身である浅田孝(**彰のオジサン)らである。そこで50年代の伝統論争を体験した建築評論業界から、日本からもインパクトのあるムーブメントを作ろうではないか!…という話がもちあがったようである。編集者の川添氏や若手建築家の菊竹・槇・大高氏が集まり、さらに黒川氏らが加わり立ち上げたのが、「新陳代謝」を意味する「メタボリズム」のグループでありその活動である。ちなみに当時の黒川氏は東大丹下研の院生で、メタボリズム・グループの中では一番の若手だったという。


世界が都市化を進めはじめる60年代、都市を生命活動(新陳代謝)する「生物」になぞらえるメタボリストの提案は世界のインテリ建築家たちの心をとらえたらしい。何よりも、欧米のモダニズム運動から完全に孤立していた極東から生み出された「メタボリズム」のイメージは、ル・コルビュジエCIAMの提示する近代建築や都市開発の限界が見え始める中で、先駆的かつ予言的な思想として捉えられた。さらに世間は科学ブームである。敗戦からの復興を超え、少しずつ豊かさに近づきかけた社会の中で、たとえば「未来学」などのように、楽天的な進歩史観を信じる科学主義が広まっていく。


こうしてメタボリズムはニホン建築初の文化輸出に成功する。そして若手建築家たちは一躍時代の寵児として高度成長期の建設需要の高まりと共に活動の幅を広げていく。さらに「メタボリズム」が欧米のモダニズム運動と結びつくことで、若いメタボリスト建築家たちは海外での活動も始めていく。


一方で、メタボリストのグループとしての「作品」はごくわずかである。また「山の手育ちのアメリカ帰り」としてグループに引き入れられた慶應ボーイ・槇氏などは当初から自らの傾向の違いを感じていたのか、早々とメタボリズム・グループの活動から距離を置いていたようである。メタボリズム・グループの最後の「作品」となるのは大阪万博あたりで、その後、若いうちから自前の事務所を構え大型プロジェクトに恵まれた建築家たちは個人の活動を進めていく。


ところで、当初は最も若く(恐らく発言権も最も小さかったであろう)黒川氏が、70年代以降になるとメタボリズムの「代名詞」的に語られていくのはナゼか。おそらく他の建築家たちがメタボリズムへの参加時に多かれ少なかれスタイルや方向性が確定していた中で、若く発展途上のキショウ氏が「メタボリズム」を自らのスタイルにうまく取り込み作品や理念と結びつけることで「メタボリズム」の言説化に成功したからではないか…という見方が一般的ではないか。


村上隆における「スーパーフラット」は日本の現代美術では珍しく成功したキャッチコピーであった。それと同じように、「メタボリズム」もまた時代の欲する空気感をうまくとらえていたのだろう。その後、村上氏にしろキショウ氏にしろ、世界中のビックプロジェクトに多く関わっていく経緯を考えれば、キャッチコピー、つまり時代の空気に合わせたレトリックの技術は世界進出の鍵である。


展示をみて作品よりなにより驚いたのは、キショウ氏のポートフォリオである。旧ソ連や中国の国際空港や新興都市の都市計画とか、とにかくビックプロジェクトの目白押しなのである。クアラルンプールの空港の植栽とか、あれは実際に見ると笑っちゃうのだけど、「アジア的な自然との共生」と主張されれば、なんとなくそういう気分になるし、計画段階の提案としては全体に対する説得力となる。


要はレトリックの力でいかに説得力をもたせるか、その技術である。さらに想定定の範囲内で過誤なくおさめ、実績をつみあげていくことがビックプロジェクトを任せる「信頼」へと結びつくのかな…と、フーム、と大人の世界を見た気がする。


キショウ氏の場合、機能、技術、予算面で大失敗をやらかさないだろうと確信させる、実績に裏付けられた安心と信頼感がある。アヴァンギャルドであることよりも安全性を求める為政者・ビュロクラシー側の信頼と安心。だから、恐らく海外で現在最もビックな日本人建築家であるキショウ氏は、若い頃に戦後最大の建築アヴァンギャルド運動たる「メタボリズム」の中心人物としての実績を確立した今となって、イマサラ新奇な発想やデザインの面白さとか求める、求められる必然性はないのかもしれない。逆に、キショウ氏よりインテリジェントな磯崎氏(あえてメタボリズムには加わらなかったという)は言語活動も含めて「アヴァンギャルド」な「アーティスト」としての自負を若い頃から今に至るまでもち続けているだろう。傍からみると、ナニか「やらかす」な期待/危惧をかきたててくれる資質は、クリエイターとしてはよっぽど面白いけれど。。世の中色々あるのである。


ところでサステイナビリティが叫ばれて久しい昨今において「メタボリズム」の思想はちっとも見直されない。60年代における「新陳代謝」がSF的なデザインレベルでしかなかったことが原因だろうが。現実に中銀カプセルタワーのように「カプセル」の交換で建築を「新陳代謝」させるなんて建築家にとってペイしないことを本気で考えるの…?とか問うのは野暮なのだし(60年代的熱さを21世紀人は共有できない?)、「新陳代謝」という言葉そのものが重要だったのである。そう考えれば、中銀カプセルタワーの取壊しは、新陳代謝しなかったデザインを批判するより、それを建築遺産として残す、つまり「死んだ」建築を保存し新たな建築への「新陳代謝」を否定する動きを容認する、そんな逆説の方がイマドキは面白がられるのである。