「ビル・ヴィオラ:はつゆめ」★★★*+カウンター事始

「ビル・ヴィオラ:はつゆめ」@森美術館
【評価】3.83(作品4.0/展示4.0/期待値3.5)



新年、明けましておめでとうございます。


新年の計は元旦にあり。今年もガンバツテ美術館を巡ろう…と思いきや、お正月にも関わらず開場している展覧会は森美術館くらい。初夢は忘れてしまったけれど、ともかく会期終了間際の六本木に走る。


森美術館はいわずと知れた東京の顔、六本木ヒルズの53階にある。森ビルによる六本木地区開発の嚆矢が80年代半ばに開館したアークヒルズだとすれば、それから20年、こんなに大きくなりました…である。


けやき坂前で獅子舞をしていた。ガムランっぽかったけど。元旦らしい。


ところで、六本木・麻布地区が長いこと都心の秘境的な空間を作り上げた背景には公共交通の問題がある。90年代まで六本木を含む麻布界隈は公共交通網から外れていた。地下鉄は日比谷線(広尾・六本木駅)のみである。都営バスが渋谷や新橋とつなげてはいるが、本数が少ないうえにバスストップの位置が分かりにくく、地元民以外には使い勝手はよくない(そもそもローカルな区域間を結ぶ都営バス網を地元外のヒトが乗りこなすのにはムリがある、というより想定されていない。パリもローマも同じ)。このあたりの基本的な移動手段が自家用車かタクシーであることの由縁である。六本木交差点から徒歩10分ほどで乃木坂、溜池山王駅にも出られるけれど、どうも物理的、精神的な文化圏が異なるようだ。


学生時代、三田から谷間をうねうね歩き麻布十番までタイヤキを食べに行く散歩が幸せだった。三田と麻布は谷をはさんで背中合わせにある、ともに大使館を多く抱える高級住宅街である。とはいえ、山手線・田町駅から三田に入る体験しか知らないと、二つの街は近くて遠い。だからこそ、谷間を越えて二つの異なる街を切り結ぶ時に感じられる意外性と居心地のよさに楽しさを感じたのである。


六本木地区の開発が進む中で、地下鉄の都営大江戸線営団南北線が開通し、麻布十番駅を起点に六本木、白金高輪麻布十番六本木一丁目駅が開設された。これにより城南地区に乗り入れる便は格段に向上した。その反面、交通網の発達は都市の秘境を解体する。全国区での営業戦略をとる六本木ヒルズの出現は、秘境・六本木をはとバスコースに組みこむことで衛生空間を生みだす。


戦前は軍事施設の置かれた怪しげな六本木7丁目は、いまや外資系ブランドや会社がひしめく、資本を集め再生産する拠点となったのである。「アメリカの押し付け!改正!」論議が盛んだが、今だって外資に肥やしてもらってるじゃん…なニホンジンは都合の悪いことだけ忘却する、だからこそ精神的健全性を保てるのである。


とはいえ、やはり便利がよくなることを喜ばしく感じる。東京西郊から六本木ヒルズへ、いまや主要ルートは渋谷から都営バスである。これがなければわたしはヒルズになど行かない。


六本木ヒルズ完成後、渋谷から六本木ヒルズの都営バス直行便ができた。おまけに、RH01系統は村上隆号である。安上がりのはとバス気分、これに乗るだけで田舎モノのヒルズ気分はいやおうなしに高まる。



約12分ほどでヒルズ(蛭図)に到着。オフィスタワーを出ると、元旦にしては結構なヒトの出入りである。全国の観光仲間たち。


ルイーズ・ブルジョワスパイダーマン


美術館へのアクセスの途上にポスターが次々とはられ、53階までの道のりを飽きさせない。こういうあたりもさすがヒルズ、宣伝上手である。


森美術館の入口。作品のポスター(「ミレニアムの五天使「旅立つ天使」」)。


ビル・ヴィオラの展示は90年代半ばから現在までの映像作品。印象に残るのはオーガンジーのような薄布を並べ2つの映像を映写する「ベール」。そして9.11をいやおうなしに思い起こさせる「ラフト」(ヴィオラはNY出身)。


ヴィオラの映像は、水や火などの自然現象をスローかつダイナミックに捉えたり、ニンゲンの表情の動きを極端なスローさで凝視することでモノの存在律やニンゲンの感情を外在化する方向性が特徴的。ヴィオラの「感動」を引き起こそうとする直接的な手法が多少新興宗教っぽくて、キャプションのイカニモ現代アート的なノリに、暗喩の国のニホン人は醒めてしまうところもあるのだが。技術者(=アーティスト)としての水準の高さは確かである。


展覧会としては、全体的には、可もなく不可もなく、の印象である。「精神主義」を狙いすぎ、な感はある。とはいえ、「失敗」のなさは完成度の高さであり、こうした境地はおいそれと真似できるものではない。枠組作りへの着実な投資が展覧会として実っている印象である。とはいえ、逆に言えばこうした手堅さって点数にしにくい、というより、点数をつける意味を感じられない。未熟であっても熱っぽければ期待値をつけたくなるのは親心のようなものだろうか。エントロピーの問題である。


翻って考えれば、なぜ六本木は開発されるのだろうか。面積あたりの収益率の高い、より端的に言えばお金の稼げる、土地・空間を整備するためである。経済原理の中では「快適さ」や「美しさ」はあくまでも付加価値であり、究極的な目標は数値であらわされる。


そうした商業空間で、投資が収益を優先せざるをえない、つまり「稼げない」、美術館システムを運営する意味とは何か。平たく言えば、「美術館」というステイタス・シンボルが企業のイメージアップにつながるということはあるだろう。そして、美術制度そのものが王侯貴族によるパトロネージにより支えられてきた歴史を考えれば、現代のパトロンたる企業経営者が文化事業に投資することは、戦略的な趣味性が必要となる。稼げないものに投資して、いかに稼ぐか、という命題をくぐりぬけると、きっと現代の熾烈な競争の中で文化活動を長続きさせることができるのだろうな、とも思う。


森美術館は「現代美術」を専門としながら、非・美術フリークとしての観光客を集めそこそこに楽しませなくてはならない、そんな「観光地」美術館でもある。集客力と展示の質をバランスよく保つ難しさを、展示のダイナミックさと華やかさでうまくクリアしていると思う。とはいえ、そうしたバランス感覚は割合に個人の能力にかかるところがあるので、担当者が変わってしまうとコロリとだめになることもあるから要注意だ。いつまで続くのだろう、とも思うのだ。永遠など存在しない。終わりは常に目の前に立ちはだかっている。

今日(1月2日)からカウンターをつけてみました。