理想の風景とはなにか、と問うこと

パリのグランパレで開催中の企画展『Nature et Idéal: Le paysage à Rome 1600-1650』が閉会間近だ(Grand Palais, Paris, 9 mars- 6 juin 2011)。

このところ、パリの建築系の施設などでは(といっても数は限られているけど)景観や庭園に関する展覧会やレクチャーが相次いで行われている。これは何も偶然ではなく、1990年代の冷戦終了に伴う欧米圏における環境政策の共通問題化と、2000年代後半に始まる全欧的な環境政策推進の流れにあるだろう。フランスは2007年がサステイナブル・ディヴェロップメント・イヤーで、その後大統領の名の下に発表されたグラン・パリ計画は、都市居住と緑地確保をうたうものだった。

個人的には2007年にパリ都市計画研究所に留学し、所属した環境・景観ゼミで欧州やらDD戦略をあれこれと調べさせられ、ゼミ旅行でブラジルまで行かされたりもした。コルビュジエ的な、どこか原始的で魅力的な緑と太陽と人間の住まいのテーゼが再考されているということかもしれない。自然のなかでのびのびとくらしたい、というのが、動物的な南欧のひとびとの共通の思いなのだろう。

とはいえ、自然のある人間の暮らしは“理想的”風景をつくるのか。理想的な風景とは何か。

上記の展覧会を訪れたのは3月末のこと。展覧会としては、風景画の魅力を再発見し自然と共に暮らす生活を礼賛することが、企画者の意図ではあるだろう。しかし、当時は大震災の直後であり、わたし自身は、フランスにいて直接体験していない都市と自然の崩壊の映像が大量に押し寄せてくるのを、インターネット上で家族で日がなおいかけていた頃だった。なので、自然はなぜ人間のまなざしをひきつけるのか、という美術史的な問いはあまりにも悠長に感じられたし、むしろ、自然が崩壊する風景は、なぜ人間のまなざしをひきつけるのか、という問いの立て方のほうが、極東アジアで生まれ育った自分には、身近であり身につまされる思いが、した。

そんなふうに思うのも、メディアを通した日々の映像はもとより、展示空間に展示された“廃墟のインスタレーション”の記憶がよみがえるからだ。1996年に行われた第6回ヴェネツィアビエンナーレ建築展に出品されたインスタレーションは、1995年の神戸大震災の都市崩壊による廃墟風景の再構成、もしくは集団的イメージの再構成であった。磯崎新コミッショナーをつとめて、石山修武宮本佳明宮本隆司による日本館に展示「亀裂」と題された1995年の神戸大震災の都市崩壊をめぐる記憶された廃墟風景のインスタレーションは、金獅子賞・パビリオン賞を受賞した。わたしがその展示を実際にみたのは、ヴェネツィアではなく、それから数年を経過したたしか2004年に世田谷美術館で開かれた宮本隆司展の展示であったが、人工の建材を重ねたにすぎないとは分かっていても、都市の自然が秘める制御しきれない野生を崩壊する自然の風景がむき出しにする。自然が世界を破壊する本性としての野生のグロテスクさが風景として表出され慄然とさせられた。そんなことも思い出されていた。こうした鑑賞者の鑑賞体験が生まれるのは、現実の災害の地霊がなせるわざか、それとも建築家や写真家たちの構想力と構成技術の巧妙のなせるわざか、インスタレーションの感傷性だったのかは、判じきれない。ただ、見ていて身体の奥底をゆさぶられる感覚を覚えたのは確かだった。磯崎新が著作の中で初期からくりかえしてきたような崩壊の風景のもたらすトラウマが、映像ではなく目の前の物質/空間として現前して、展覧会の会場で共同体験となり感応を強いたのかもしれない。そんな崩壊の記憶を見るものに確信犯的によみがえらせるのは残酷な意思でもあり、芸術体験としては貴重かもしれないが、崩壊の風景は痛みを伴う消し去りたいけど消えない永遠の傷をつつかれたようで、幸せな美的経験とは単純に喜べなかった。

翻って、今年3月のグランパレで見た風景画の展示そのものは、あくまで知的かつディダクティックであった。17世紀前半、ローマにやってきた画家たちが残した絵画をあつめて、そこにヨーロッパの風景画の成立を見ることが基本的コンセプトである。ルーブルを含めた国内外の美術館から借り出された絵画群は、ルネサンス以降のヨーロッパにおける風景の表象の変遷を明快・整然にたどっていた。展覧会のサブタイトルにRome 1600-1650と銘打たれているのは、17世紀前半のローマというこの時代のこの場所において、ヨーロッパにおける“風景画”がひとつのジャンルとして確立されたという美術史上の通説に由来する。風景画がなぜこの時代、17世紀前半に確立したかといえば、そこにはこの時代にヨーロッパ世界を席巻した反宗教改革という歴史的背景が重なってくる。16世紀末のルターに始まる宗教改革は、カトリック教会による人間中心主義のルネサンスの揺り返しともいうべき反宗教改革の動きを誘引した。バチカン・ローマは、教会から離れかけた人心を取り戻そうと、ヨーロッパ中から芸術家を集めて教会堂や内部を彩る宗教画を発注し、聖堂内部を飾り立てた。こうして絢爛豪華なバロック芸術が発達し、サンピエトロ寺院の完成をはじめに、この17世紀前半という時期に現在のバロック・ローマの街並みが形成されることとなる。

そんな時代に、イタリア、フランス、オランダなどから集められたアーティストたちは、陽光輝くローマで真っ青な空の下で古代遺跡を眺めながら、野卑なまでに生命力に富んだ風景に刺激を受けて、その情熱を教会堂のクーポールに描きこんでいく。ローマで出会った風景への関心は、カラッチ、プッサン、ロランら、戸外での写生を通して、都市ローマの自然の風景を主題化した風景画を確立していく。自然に客観美をみる人間たちの心は、宗教画の画面上の神の子たちや聖人たちを背景においやり、自然を前景化し、独立したテーマとして確立していく。とりあげられた画家全34人中18人はイタリア国外からやってきた画家、また残りのイタリア人たちもそのほとんどが他の町からやってきたひとびとだ。古代の遺跡を多く残す古代都市の風景は、人間をひきつけ、美の創造/想像力をかきたてたことは想像にがたくない。

ヨーロッパの風景画の発展の臨界点となるの、戸外での風景の写生という、現代から見ればあたりまえに見える行為だ。写生は客観的な環境世界の事物をありのままに写し取ろうとする科学的に倣う行為であるが、自然を理想美に仕立て上げようとする意識が働くときに、それはあたりまえのことではない。ギリシアに範をとるヨーロッパ文化において、人工物にせよ人体にせよ、理想美が調和により得られるとすれば、16世紀の画家たちは戸外に出て自然環境に対峙することなくも、既存の絵画や版画を参照し、自らのキャンバスにそのまま模倣してバランスよく構成することで理想の自然美の実現を試みた。また、もしくは作例は少なかったが、自然災害は宗教画における風景表現のひとつのモチーフだ。そうした事象は神話時代の神の脅威として宗教画の中で連綿と描かれてきたのも、自然が崩壊する瞬間の風景はさまざまなドラマと宗教的官能をもたらすからだろう。

ところで写生という行為は、それではつねに風景の客観性を保証するのだろうか。

Paysageは、英訳するとLandscapeで、一般的には“風景”と訳される。美術用語としてはより限定的に“風景画”という一ジャンルをさすことが多い。風景が主観によって捉えた外部世界のあらわれであるとすれば、風景画は主観によって再現された外部の世界であるはずだ。しかし、人間存在の主観が客観的環境を認知する限り、絶対唯一の世界など存在するわけがないように、主観による構築の契機が介入する風景に絶対性など存在しえない。風景は、見る者の主観の分だけ切り取られ意識に表象されるしかたがことなるとすれば、理想的風景のありかたも、時代や文化、ひとによって偏差が生まれるだろう。

とはいえ、一点集中型の遠近法に基づくフランス式の整形式庭園と、移動による多視点型の日本的な回遊式庭園において、そこで表象される自然に対する文化的認識が異なるとされるとしても、文化における自然美は根本的に異なるといえるのだろうか。いずれにせよ、自然の全体性というのも程度の差こそあるとはいえ幻想性がつきまとう。環境としての自然は、多かれ少なかれ、主観により認識され意識に現われるときに再構成の契機を経ているものだからだ。

ひるがえって、大震災の映像を前に自問した、自然が崩壊する風景はなぜひとのまなざしをひきつけるのか、という問いかけをもう一度考えてみる。

たとえば廃墟を空間の中の物質にもちこまれた時間の中の形と考える。建物は本来静的な存在であるが、崩壊という契機がいやおうなく時間によって生じる形態的変化を表出させるからだ。すると、大地の上で物質と物質の調和状態を保っていた物質としての建物が、形のくずれにより、時間と空間を同時に変調する瞬間に、“廃墟”がうまれることに気づく。物質的な建物の崩壊は、時間の連続の中では免れえないが、問題はむしろ、統一したある世界に崩壊のひびめが入る際に、人間の制御不可能な時間のファクターが野生をあらわにすることだろう。

それでは野生とはなにか。それが文節以前の非言語的状態、名づけ以前の非理性な状態であるとすれば、崩壊とは静的な調和にもたらされた動的変調だ。風景画に描きこまれる廃墟は、ローマの古代遺跡を眺めていた画家たちが画面上の調和と変調の対照的バランスとして忍びこませたものだろう。ひとは自然にある調和を見出して安らぎを感じながら、人間という存在においては時間の有限性を体験的に知っている。むしろ時間が有限であるからこそ、世界の割れ目からのぞく野性に、刻一刻と迫る時間の果てをつきつけられ、慄然としながらまなざしをはなせないのかもしれない。崩壊は、時間という人間にとって制御不可能な要素であり、そこにおいては物質の限界に抵抗できない。

まとまりがなくなったけれど、最後に、それでは“理想の風景”とは何か。
ひとりひとりが認知する風景が異なるとすれば、理想とする風景も異なる、などという言い方はしたくない。というのも、やはり“自然”の風景がある共同幻想としての理想にもっとも接近しているように感じられるからだ。結局は、誰もが野生を秘めていて、自然の中に、許容される野生の表出を嗅ぎとっているからかもしれない。