パリのアメリカ人

ウッディ・アレンミッドナイト・イン・パリ』Midnight in Paris
ベルナルド・ベルトルッチラスト・タンゴ・イン・パリ』ultimo tango in Parigi



カンヌ映画祭のオープニングを飾ったウディ・アレンミッドナイト・イン・パリ』を近所の映画館でみてきた。この作品、フランスではサルコジ大統領現夫人で歌手のカルラ・ブルーニが登場することで話題を呼んでいる。イタリアの名門出で、スーパーモデルから歌手に転進し、現在43歳のカルラ夫人は大統領夫人が耳目を集めているのは2012年の大統領選挙に合わせた妊娠発表。DSK疑惑とあわせてココまで阿漕かサルコジ政治…かどうか分からないけど、そんなフランス的状況をカンヌ映画祭に合わせてとりこむウッディ・アレン監督の老獪さはたいしたもの。

肝心の『ミッドナイト・イン・パリ』のほうは、どうでもよいできだった。

【物語】ハリウッドで働くアメリカ人脚本家・ギルはブルジョワ育ちの婚約者・イネスと共に、イネスの両親の商用に付き合いパリを訪れるが、真夜中のパリで1920年代にタイムスリップする物語。パリで俗物的なハリウッド的環境に倦んで小説家を目指すギルが、会社経営者である両親や、偶然であったイネスの憧れの旧友ポールが象徴する華やかで知的でどこか書割的な世界から次第に排除されていく。ギルはイネスと別れてひとり偶然迷いこんだ町の界隈で、古めかしい自動車に乗せられ1920年代のパリへと連れて行かれる。ギルは、パリの文化の黄金期で、フィッツジェラルドヘミングウェイゼルダガートルード・スタインら、パリで最先端の文化を享受するアメリカ人の若い文学者たち、そしてピカソ、ダリ、ブニュエルマチスまで、夜な夜な訪れるカフェやサロンには文化人たちがあふれ盛んに議論を交わし交流を深めているのを目の当たりにし、婚約者たちから離れて過去の街へと夜な夜な訪れることになる。

『巴里のアメリカ人』はガーシュウィン交響曲ヴィンセント・ミネリなど、1920年代パリを礼賛するあアメリカ的なテーマだ。時代の象徴としての自動車が右から左へとテンポよく路上をすべるのにあわせて展開していく。歴史上の人物によく似た俳優たちがタバコの煙る室内でにぎやかに談笑する華やかな様子が画面に次々と登場していく。映画自体の破綻の少ないバランスよく安定した物語構成は、名監督の手馴れた手際ならではだろう。カンヌ映画祭で、ハリウッドから離れてパリ移住を夢見るアメリカ人脚本家を主役に据え、カンヌを見据えた観光映画としてフランス文化礼賛、パリ礼賛を前面化するウッディ・アレンの皮肉なあざとさが見事だ。とはいえ、作品の仕上がりとしては、よく言えば軽妙、正直なところ、ウディ・アレンが『インテリア』の頃に見せた心理に対する鋭利なナイフさばきと比べるべくもなく、表層的な皮肉にとどまり内容も深みも批評性も感じさせてくれない。そんな物語のつくりが、最近の巨匠の散漫さと低調さを感じさせた。

ミッドナイト・イン・パリ』において、パリの通りを右から左へと走りぬける自動車には常に運転手がついている。《アメリカ人》たちが土地勘の無い町でハンドルを握ることはなく、運転手つきの自動車に乗せられ、他者の意思により予定された場所へと連れて行かれる。彼らの移動や物語の展開は、彼らの意思によってではなく運転手=監督によって決定される。豪壮なオールドカーとシンプルな現代車という仕掛けも、また時間をつなぐ道もそこでは本質的には大差は無い。人物は《パリのアメリカ人》という、これまで何度も繰り返されてきた物語のプロトタイプで道を走らされているだけだ。そこでは道の選択は、右から左への二次元的な線しかなく、時間のもつ空間の深淵を予兆さえかいまみせてはくれないし、ましてや平板にしか描ききれてない人物たちが心理の奥底を見せることもなく、ただ、作品そのものの浅薄な限界値を示すにとどまった。

観光客としてパリの街角を訪れたことがあるなら、道を歩いているうちに、連続した過去の歴史が現前する瞬間に遭遇するような感覚は、一度ならず覚えた経験があるだろう。しかし、そこを歩くのみで時間の深淵にたどりつくことなどできるだろうか。あたりまえの自動車が運転手のいない自動車が目的地に向かって走ることは無いように、なんらかの意思が働かなければ人間の行為は決まらない。そして時間という道はいつでもでこぼこしていて上り下りの坂もあり、時には途切れ、眼前に崖が控えそこに飛び込まざるをえないことさえある。規定の道など、実はどこにもないからだ。ある状況下に置かれたときの人間の心理、反応、行動は、単に表面的な出来事によって自動的に決定するのではなく、その人物をめぐる描かれえない複雑に絡まりあう個別の背景や状況で無数の差異とずれがおりなされる。そこまで含みこんでの監督・俳優による物語作りが必要で、単に《ブルジョワ、ハリウッド→俗物》《1920年代パリ→憧憬》というありがちな図式では人物のリアリティを掘り下げる前に《ウッディ・アレンも所詮アメリカの映画監督》とレッテルを付けられて終わりだろう。

《パリのアメリカ人》の影の時間というべき道につきまとう深淵を描いた作品として、ベルナルド・ベルトルッチラスト・タンゴ・イン・パリ』1972が思いだされる(ベルトルッチ自身、若い頃にパリに移住し、その後ハリウッドで活動する《アメリカのイタリア人》だ)。

【物語】パリで安ホテルを営むアメリカ人がブルジョワ家庭のフランス人少女と匿名の出会いをし最終的に死に到る物語だ。

舞台となるメトロ6番線やエッフェル塔周辺は新興開発地だが、華やかな観光地のすぐそばの、周囲にすすけたしもた屋のような低層住宅を控えていたであろう。うらぶれた街角の空アパートでホテルという周辺的な空間を経営する異邦人は大都市の影の存在だろう。フランス人のブルジョワ家庭の娘という典型的な光の世界から来た存在が影の存在と邂逅するとき、60年代から70年代にかけての大都市開発の空間の裏表をあらわにする。二人の行動が衝動的に見えても断片的なせりふや映像、そして二人の身体に降り注ぐ影が、出会いがしらで身体を合わせ、最後の別れ際にタンゴ審査会場に乱入して踊るという、合理的にみればなんら必然性の見えない展開に、スクリーンのこちらに非合理であるからこその心理的な一体化をもたらすのだろう。空間は画面の表層を右から左へ走りぬけるだけでは、単にフレームイン、フレームアウトの処理のみですまされてしまう。人物は、正面から奥へ、その斜めへ、と、出現と消失を繰り返すことで、空間と時間が連なり非合理に錯綜する瞬間が初冬の灰色の空の下であらわになる。

主演のマーロン・ブランドは2004年に、またマリア・シュナイダーはつい先ごろ、2011年2月に亡くなった。主演二人を欠いた物語の道は途切れてこれ以上進展することはないが、状況がつくりだす人間の心理と行動が空間性、時間性と深い次元で結びつくことを示すときに、《パリのアメリカ人》という底抜けに明るい異邦人が巻き起こす観光映画のテーマも別の展開を見せることだろう。
しかし、この映画が40年前に製作されたことを考えれば、芸術や文化が進化論で語られえないことを確認するだけかもな。