2011年カンヌ映画祭

5月22日に2011年カンヌ映画祭が幕を閉じた。France Infoの中継でクロージングの受賞発表を聞いていた。パルム・ドール受賞はテレンス・マリック監督、ブラッド・ピット主演『THE TREE OF LIFE』、グランプリを受賞したベルギーの円熟監督・ダルデンヌ兄弟『Le Gamin au Vélo』(少年と自転車) とトルコの『Once apon a time in Anatolia』

下馬評の高かったアキ・カウリスマキ『Le Havre』がパルムドールを逃したことにリベラシオン紙は作品のクオリティの高さで選ばれるわけではない!…と批判した。賞レースなんてそんなものなのだろう。

ちなみに主催国・フランスの反応といえば、France Infoの中継を聞いていた限り、アメリカ勢が2冠をとったことにかみついていたのが、またか、と、印象的だった。
フランス勢は、審査員特別賞『Polisse』『The Artists』ジャン・デュジャルダンの主演男優賞の枠に滑りこませた。それに対し、アメリカ勢は、オープニングのウディ・アレン『Midnight in Paris』に始まり、パルムドール、主演女優賞を確保し世間の話題をさらっていた。そもそも『The Artists』でさえ20年代ハリウッドを舞台にした物語であるのだ。2011年カンヌはアメリカ・ハリウッド文化に席巻されたと印象はぬぐいがたい。審査委員長がロバート・デニーロだから規定路線…と言わんばかりの反応だったけれど。

ただ、フランスが愚痴を言いたくなる気分も分かるけれど、カンヌに出品されているフランス映画を見ていればこの結果はしかたないだろうな、とも思わせられる。フランスから世界の舞台に勝負をかけられるよう監督も大作も、この数十年、なかなか出てこないからだ。フランスの映画製作の現場を製作する人材は国立映画学校から輩されている。第1線で活躍する監督や映画製作を支える関係者の多くは、ごく若いときに国立映画学校に厳しい選抜をパスして入学し、ハリウッドを仮想敵とするような環境で名画をあびるように見て、卒業後は映画業界で働くフランス国内の映画芸術エリートだ。ただ、彼らが世界市場でどれほどの競争力をもちうるか、もしくは今現在で彼らのなかから世界の映画的才能に伍しうる人材がどれほど輩出されたか考えると、なかなか心もとない。

作品でいえば、例えば、近年フランス映画でパルムドールを受賞したのは2008年のカンヌ受賞作ローラン・カンテLorent Cantet『Entre les murs』(邦題:パリ20区、僕たちのクラス)だ。この作品は、移民問題、経済問題、近代ユルバニスムの破綻などなど、フランスで問題となるパリの郊外問題をはらむ地域で(パリ郊外と東京の下町とでは都市のあり方が根本的に異なるなど、)、そのテーマ設定と映画としての仕上がりのよさで、ミクロなテーマをマクロでヒューマンな物語に展開していた。ただ、佳作ではあるけれど地味な作品で、世界的な興行的大ヒットを誘発、達成するタイプの作品ではないし、また、現代フランス映画を代表する作品…!とは、2012年大統領選に向けて社会の保守化をあらわにするフランスの人々が主張したがるタイプの作品ではないかもしれない。

実際のところ、フランスは文化輸出国の体裁をとっているけれど、歴史的に見ればむしろ自国外から才能を集めて文化大国としてのし上がってきた文化輸入育成型の国家だ。フランス人やフランス文化がオリジナルな文化的才能を量産したというよりも、文化的才能を安値で輸入してフランス文化に上手いこととりこんでいく、ブランディング技術に非常に長けた戦略的な国家だ。次々と買収をしかけて巨大企業体にのしあがった現代のLVMHがその典型だろう。それを考えれば、フランスの現在の移民政策やフランス純化政策が長い目で見て文化を衰退させるのではないのか、という歴史的な危機感は生まれないのかな、とも思う。

しかし、少し話をずらせば、こと芸術分野にかぎる場合、賞レースが弊害をもたらす側面が明らかに存在する。賞レースにより恩恵、利益をもたらされるのはなにも善意の受賞者側だけではなく、レースというシステム存続が目的化されている場合、作者が賞を受賞する以上に、授与者が多きな利益を得るからだ。

賞賛のもつ見せ掛けの善意やポジティビズムの裏に、選考側の利益主義と自己満足、もしくはビジネスの思惑が働いている。受賞者がチャンスを生かして受賞を次のステップの足がかりにできればよいだろうし、それこそが賞を与えられ受け取るることの意義だ。ただ、受賞者もその周囲も観衆も、状況に飲みこまれて、クリエイティビティの本質を見失わされ、長期的には何も残らないもたらされない状況にさらされることもある。映画祭はフィルムの買い付けを目的に世界中の配給会社が集まるビジネスの場という前提がある。カンヌが華やかなイベントであり、また過酷なビジネスの現場だ。そこは、クリエイティヴィティを売り買いしスポイルする場でもあるのだ。作品そのもののクオリティが高ければパルムドールを受賞するわけではない。むしろ受賞がもたらす付加価値で作品の商品価値が格段に跳ね上がるビジネス効果があることが重要だ。

そんなことから、映画に限らずどんな分野であれ、くだらない作品を名作と主張して、見事に賞を与えてしまう交渉力をもつ選考委員は世の中数多く存在する。周囲で見守るしかない鑑賞者としては、受賞作に対して受賞という事実以上の賞賛を送ることには懐疑の思考回路を温存するか、せめてためらいを感じていられるひねた健全さを保っていたいとも思う。受賞事実が作品のクオリティを絶対的に保証するわけでは無いことが頭では分かっていても、人間は華やかさや世間的な目に流されがちだからだし、判断の権利を平気で放棄する人間は多い。結局は自分の目で作品を確かめて自分自身でその価値を判断していくことのほうがずっと重要なのだけど、常に自分の中のナイーブな懐疑心を確認して生きていこうとは思う。