四字熟語

ハルココロ
「四字熟語」

漢字4文字で作られた日本語の熟語。中国の故事や漢文から作られる場合が多い。背景となる物語やいわれがある場合は、文字数に比べて情報量が多く、共通知識のある者同士では意思伝達の助けとなる。また教養のある感じの分かりやすい文章を書く事が出来る。



ということで。熟語は言葉の豊かさ、つまり、記号からはみでた表現性を獲得した状態が、その理想形である。これはどの表現形態にでもあてはまること。つまり、例えばフェルメール肖像画を眺めて感動するのは、モデルと肖像画が写真的に似ている、つまり写実性という意味での相似、以上の「何か」がそこにとりこまれているから。だいたい、絵画的再現性とは現実の理想化がナンボノモノなので、えてしてモデル、つまりイデアの原イデア?をみないほうがいい場合が多い。そもそもタブローにのせられた時点で「表現」が始まっているのだから。

もしくは、プルーヴェのプレハブとイマドキのプレハブが全く異なるように見えるのも、前者が、プレハブとはナニか???…と建築のスダンダード化の初期にカラダを歯ってといかけた痕跡、ということもあるのかも。実際、プルーヴェ爺さんのプレハブ小屋はかなりこまごまと気合が入ってて、手の痕跡ひとつに感動させられてしまうし、もはやこれはプルーヴェ爺さんと愉快な仲間たち以外で実現するのは無理ではないか、と思わされてしまう。

表現はナマモノなのでやっぱりくさってしまう。そのくさらせ方、熟成のさせかたで、緊張がとどめられたり、より一層の熟成がみられればよいけど、だいたいは環境条件が働き、もしくは表現のもとの弱さにより、そんなに上手くはいかないものである。表現が表現をつきぬけることこそ、クリエイティビティの醍醐味があるわけで。そういうものに実際に遭遇して感動すると、生きてるってすばらしいな、と素直に思えたりするのでした。

とりおとした四時熟語をメモ。
「邯鄲之夢」。盧生という青年が、中国趙の都・邯鄲の茶店で、道士・呂翁から不思議な枕を借りて眠った。すると、立身出世し、50余年の栄華を極めて一生を送る夢をみた。しかし、目覚めてみると、茶店の店主が炊いていた黄梁さえ炊き上がっていないわずかな時間であった。人生の栄枯盛衰のはかなさ。一炊の夢。盧生の夢。邯鄲の枕。
出典:「枕中記」。

http://d.hatena.ne.jp/haarhurryparis/20081022