和光同塵

ハルココロ
和光同塵
自分の学徳・才能を隠し、俗世間の中で暮らしていること。もしくは仏語で、ホトケや菩薩が本来の威光をやわらげて、塵に汚れたこの世に仮の身を現し、衆生を救うこと。和光は、才知の光を和らげること。同塵は、自分の周りの塵を同じくすること。
出典:老子「ソノ光ヲ和シテソノ塵ニ同ジクス」



泥の中から輝きだす蓮の花、ではないけれど、和光同塵も神々しい美しさを感じさせかも。謙虚さは美、卑屈さは醜。

ちなみに「塵」は鹿が走り去ると砂埃がたつ…という会意だそうです。ちなみにこの漢字には、仏教で、修行のさまたげとなる欲望の原因となるもの。「六塵」は人の心を汚し乱す、色・声・香・味・触・法の六種の欲望。五感のうちでも目は欲望の糸口ではない、ということなのかしら。肉体的というより感覚的。カトリック七つの大罪的な高慢、貪欲、性欲、怒り、大食、ねたみ、怠惰…の身悶える肉体性とはことなる。東西を切り分けるこの身体感覚よ。。

ちなみに視覚は欲望とはつながらないのか、と考えると、現代の視覚文化の発想とは異なるのかもしれない。ルネサンスの遠近法が主体・客体の関係性にあるように、視覚は近代科学を支える、脳みそに直結する高級感覚…なのだろうか。ギリシアなどでは、イデアイデアたる美術よりも、数学的な音楽や詩のほうがよっぽど高級とされたと習った気がするけど。老いの頭にあてにならない知識がタップリ。

ところで六塵の「法」がなぜ欲望…?と、チョット調べた限り分からなかった。けど。この漢字、実はオモシロ系と分かる。

「法」:会意。「水+鷹(鹿と馬に似た珍しい獣)+去(ひっこめる)」で、池の中の島に珍獣をおしこめて、外に出られないようにしたさま。珍獣はその枠の中では自由だが、その枠の外には出られない。広くそのような生活にはめられた枠をいう…のだそうです。

珍獣だって…!

しかめつらの「法」に隠れた真実が見えてきた。ひとみしりする珍獣をかごにとじこめ、ひとり遊ぶするようすを可愛らしく眺める…幸せ感だろうか。珍獣大好き…というそれこそが欲望かしら。まあいいけどね。

http://d.hatena.ne.jp/haarhurryparis/20081020