累卵之危

ハルココロ
「累卵之危」
るいらんのあやうき。ちょっとしたきかっかけからも、すぐ悪い事態になりそうな危険な状態のこと。一触即発。
出典:枚乗・上書諌呉王「必ズ為サント欲スルトコロノ若キハ、累卵ヨリ危ウク、天ニ上ルヨリ難シ」



さて、危うき峠も乗り越え、一触即発な事態への改善もみられ平和な週末を迎えた…と思いたい。人はいつでも累卵の危うき、奢ることなかれのメメントモーリである。そういうときは、するりと身体をゆるめることも大事かも。神様だって7日目にオフをいただいて羽をのばしたくらいだから、人間だってたまには休まねばならない。そこで今週は欲望週間。とかいって小市民以下だけどね。


注文していたDVDが届いた。ルイス・ブニュエルビリディアナ』1961。カンヌ映画祭パルムドール受賞作。ブニュエルが半ば追われた先のメキシコから、本国スペインに帰還して制作した最初の作品。日本で公開されたのは64年頃。ちなみに、この作品に登場するフランシスコ・ラバルは翌年にアントニオーニが発表した『太陽はひとりぼっち』に振られ男として出演。モニカ・ヴィッティも後年ブニュエルの『自由の幻想』に登場する。


60年代の芸術映画系の批評をみると評判の高いこの作品は、しかし、なぜか日本ではながらくビデオもDVDも手に入らなかった。数年前に発売されたコフレでようやく一般にも出回るようになったが。なぜか、といえば、見ればわかるのだけど、なかなかの問題作なのである。修道院、修道女をめぐる表現が、宗教的スキャンダルとされ、フランコ独裁政権下ではほぼ発禁処分となったらしい。


そういわれると見たくなっちゃう…というほど悪趣味でもない。『ビルディアナ』に憧れに近い興味をいだいていたのは、この作品が、芸術映画の文脈のみならず、たとえば市川雅『行為と肉体』など、舞踏批評でも言及されてきたから。


時は現代。田舎に住む冷酷な伯父に呼び寄せられてやってきた異常なほど敬虔な美しき修道女ビルディアナ。地主である伯父は、若い姪に死んだ妻の面影を見て、結婚を申し込むけど、神経症気味の伯父を嫌っていたビルディアナにあえなく拒否される。そこで伯父はビルディアナが去る晩、亡き妻のウェディングドレスを着せた上、睡眠薬で意識を失わせて手篭めにしようとするが、果たせない。翌日、伯父はビルディアナに対し、寝てるうちにきみを犯しちゃったから、修道院には戻れやしないね、残りなさいな、と嘘をつく。するとビルディアナは怒って修道院に帰りしたくを始める。あわてた伯父は嘘を告白するが、ビルディアナは去っていく。伯父は屋敷の庭の木に首をくくり死んでしまい、バス停で警察に引き止められたビルディアナは修道院に戻るのをやめ、伯父の屋敷の一角に残って乞食たちを集めて罪滅ぼしに世話することにする。そこへ伯父の息子ホルヘが愛人をつれてもどってくるが、荒れ果てた屋敷や地所をみると早速改修を始める。一方、ビルディアナに連れてこられた乞食たちは最初は従順を示していたが、ビルディアナとホルヘたちが出払った晩に邸内にあがりこみ晩餐をはじめ、果てにはビルディアナを襲おうとたくらむ。。


40年以上経って冷静にみかえせば、公開当時の興奮はともかく、作品として粗がかなり見られるのは確か。たとえば展開の性急さとバランスのずれ。物語は主に1.ビルディアナと伯父2.ビルディアナとホルヘ3.乞食の晩餐…のパートに分かれているが、エピソードを積みこみすぎで、87分の中におさめるために、カメラの切り返しや編集に無理が生じる。そのため、鑑賞中に映画独特の時空が醸成されず、ただストーリーを理解するレベルにとどめられてしまう。表現したいことが多くとも、全体の流れで切るべきものは切る勇気がより以上の効果をもたらす、という知恵。とはいえ、古典は瑣末なことを批判してもショーガナイ…同時代にはあからさまにみえた表現を、現代の時点で読み取ることの楽しみをとるほうが賢いだろう。


たとえば、ブニュエルとアントニオーニを比べ、何が違うか…と考える。ブニュエルは変態バロック、アントニオーニはイヤミなモダニズムである…うまくいえないけど。どちらとも、作品が本国以上にパリで評価の高い南欧人作家で、また芸術映画の範疇にくくられるけど、そのテーマ性は全く異なる。単純化すれば、ブニュエルは土着的、アントニオーニは都会的、なのかもしれない。イタリア人のアントニオーニは戦後イタリア映画界では珍しく、純粋芸術志向で、宗教性、政治性ゼロ。映画のモデルはモダニズム絵画…(というのはアントニオーニ自身は否定するが、それすらモダニスト的なポーズだろう)。それに対し、スペイン人のブニュエルは反カトリック的立場から宗教、政治意識を映画にストレートに出す。


ちなみにカトリックの本髄は欲望にある。日本人的には、「大罪」と言われると、盗んじゃいけないとか殺しちゃいけないとか時間に遅れてはいけないとか、モラルに関わる問題を思い浮かべるけれど、欲望たぎる南欧カトリックの7つの大罪は、高慢、貪欲、性欲、怒り、大食、ねたみ、怠惰である。とめどない欲望といかに折り合いをつけるかが南欧キリシタンの大きな悩みであるのだ。それを考えれば、反カトリックに見えるこの映画も、その本質は非常に宗教的であること、それは、やはり反宗教を標榜したコミュニストパゾリーニが宗教性をテーマにしつづたことも共通したことであった。その意味で、文学性を基盤とする南欧映画において、無宗教であることをいかに作品化するかその困難さの想像はつく。意地っ張りなアントニオーニの偉かったところ。武士はくわねど高楊枝である。


とはいえ、両者のより本質的な違いは、そうしたテーマ性が表現と結びつくときに目指される対象の閾である。そこで、ブニュエルは身体にとどまり、アントニオーニは身体の欠落の次元へと向かう。つまり、ブニュエルにおけるモノはフェティッシュであり、アントニオーニにおけるものはフェティッシュではない、ということだ。アントニオーニにおいて、その関心は意識の対象ではなく意識そのものであり、主体と客体の区別は明瞭である。それに対し、ブニュエルは主体が客体に溶け合い未分化な闇に落とし込まれていく状況を描く。だから見ているとどこか身体的な狂おしさを感じる。


何を言ってるんだい…てな感じだけれど、このあたりは、単に、裸体や行為を映像に記録すればスケベな表現となると考えがちな無知をこえ、エロスとは何か、エロティックであるとはどういうことか。より根本的には、身体や身体性とは何か、を考えるには重要かも。こうした思考は、映像にとどまらず、他の領域の表現にも当てはまる。例えば階段をひとつ作るにしろ、機能としての階段は自動的に作れるのかもしれないけど、階段とは何か、階段的なるものはどういうことか、考え抜かれ実現されることで「作品」が生まれのだろうな、と思ったり。よく知りませんが。


ブニュエルの脚フェチは有名だけど、面白いのは、ブニュエル的な脚が、調和のとれた美しきフォルム、いわゆる美脚を撮りながら、映像の時間の中においては、ゆがんだ身体の象徴となることだ。計算されつくした完璧な映像の中で、身体特有のゆがみを映し出すことが映像を身体化するブニュエルの方法論である。身体そのものを越えた身体性の次元に踏みこむことでエロスの充溢した画面がもたらされるから。


例えば『ビルディアナ』において、舞踏批評の文脈で言及されるウェディングドレスと乞食男のダンスシーン。このウェディングドレスは、ビルディアナの亡き伯母が身につけたまま息絶えたいわくつきのフェティッシュだ。伯父は生前、亡き妻の残したドレスと靴を自室でこっそりと身に着ける性癖を持っていた。さらにビルディアナにも着せ、それを見たあげくに欲情してしまうのだけど、欲望は果たせずにして絶望のまま死ぬ。ドレスはその後ライ病の乞食男により持ち出される。乞食男は主たち不在の「最後の」晩餐の席でドレスを身につけ滑稽に舞うことで乞食仲間に加えてもらえる。


こうした表現は一見するとビルディアナや伯母、さらにはカトリシズムへの陵辱に見えなくもない。しかし、問題はむしろ、この2人の金髪女性が記号化した存在として描かれることで、物語そのものはドレスと戯れる男性側の不能をあらわにすることだ。神経症の伯父は過去の記憶に埋もれた荒れ果てた屋敷でフェティシズムの闇におちこむ。ビルディアナを襲おうとしても欲望を達することはできないのは、伯父にとってビルディアナは記号的な存在でしかないからだ。それに対し屋敷をあっさりと改修する息子のホルヘは身体のゆがみを知らずに欲望を達していく。親子の姿は対照的である。古いドレスや屋敷が伯父にとっては輝いてい見えても、息子にとっては干からびた古い殻でしかない。


ブニュエル映画が女性を前面に出しながら常に男性を中心軸とする物語であるのも、常に女性がフェティッシュであるからだろう。フェティッシュを愛することは、時間の経過、つまりは古さを愛することでもある。モノは瞬時に存在するとしても、人はそこに記憶を宿らせることでモノを永遠化しようとする。視線を奪う形態が常に時間の中でしか存在できないことのあかしだろう。ビルディアナの有名なダンスシーンが、60年代ブトーの巨匠たちの原イメージとして重なるなあ、とマアマアなことを確かめつつ。時間に耐えることはそれだけで名画になれる条件かもしれないと単純化しつつ。

http://d.hatena.ne.jp/haarhurryparis/20081017