同床異夢

ハルココロ
「同床異夢」
同じ床に枕を並べて寝ながら、それぞれ違った夢を見ること。転じて、同じことを行いながら、考えや思惑が異なること。
出典:陳亮「与朱元晦書」



さて、「夢」という漢字。会意文字で、上部(草冠と四)は羊の赤くただれた目。よく見えないことをあらわす。「夢」は、それとワ(おおい)および夕(月)をあわせることで、夜の闇におおわれて、ものが見えないこと。漆黒の闇で宵っ張りの羊が目を赤くはらせ…というのはなんともかわいい感じ。月の不在を前提にする夢は、ある意味で、狂気を意味するルナティックとは異なる、理性の闇を表すのかもしれない。


夢物語、というと非現実的な響きがするが、わたしたちの見る夢は自分が日常的に見慣れたイメージで構成されており、抽象的な物語と思えてもその断片はたいていが日常経験を超えるものではない。夢の非現実性はシンタックスのレベルにあり、脳内に浮かぶ映像そのものが非現実的であるわけではない。その意味では、夢のイメージは、構築的なキュビズム的であっても、還元的なアクションペインティング的ではない、ということか、チョット違うかもしれないけど。シュールな精神分析超のブニュエル映画はそうした夢の構造、つまりは日常的な非現実感に支えられていたりする。夢は人間の想像力を超えられないのだ。


ところで枕を並べたふたりの夢はかならず異なるのだろうか。たとえばひどく暑苦しい環境で寝ていて寝苦しさが夢に反映されたりするとか。そうすれば似たような夢をみたりするかも。「夢」とは視覚を越えたイマージュ、脳内イメージであるならば、夢は睡眠時に価値があるのか、それとも思い出すことに価値があるのか。


ここで夢解釈。夢解釈は睡眠中の「イメージ」を言葉で語る行為が重要である。たとえば聖書にしばし登場する預言者。預言とは「神託を聴いたと自覚するものが語る神の意思の解釈と予告。またそれを語ること」である。つまり、他者なり本人が得たイメージを解釈し言語化することが預言である。よって預言はイメージを前提とする。そしてこのイメージはしばしば、睡眠という生理機能によりもたらされる夢、というよりは、浅い眠りにもたらされる夢、もしくは不眠によりもたらされることが多い。


そもそもひとはなぜ夢に意味をみいだそうとするのか。ひとは映画にストーリーをよみとるように、イマージュを解読しようとする。イマージュをイマージュのままとどめないのはなぜか。たぶん、ひとはイマージュのもつ根源的な未分化性を耐えがたいものと直感するからだろう。視覚であって視覚でない夢のもつあやふやな質を、ひとは言語で意味化することでしか理性を保つすべをもたない。


場合によって、同床同夢と言いはることのよさもある。覚醒時のイメージはすで解釈のフィルターがかけられている。夢には夢となる以前の原イメージ的なものがあり、それが共有可能であれば、隣で寝合わせたふたりの夢も実はどこかでつながっていると言いはれば。イメージを超えるイメージというものがあるとするなら、わたしたちはそんなイメージを果たして解釈することができるだろうか。解釈不能なイメージがあるとすればどのようなものかしら、と夢の中で想像してみたりもする。

http://d.hatena.ne.jp/haarhurryparis/20081011