破顔一笑
ハルココロ
「破顔一笑」
顔をほころばせてにっこりと笑うこと。
顔を破るとはいかなることか。
「破」は表面をやぶって中までつっこむ。覆い隠しているものをやぶり、物事の秘密をあらわにすること。つまり、顔面の構成諸要素の調和がやぶれ、輝くような感情がこぼれおちる、そんな感じだ。
そこへ、笑いは、Burst into laughing にも共通する感情の横溢がもたらす、破壊力を発揮する。笑いの破壊力は有無をいわせない。弛緩した顔面の調和を破る一瞬のダイナミズムが他者のダイナミズムをうばいとる。
笑いという現象を人間特有のものととらえ、それを誘発するおかしみの構造やを社会化しようとしたのがかのベルグソンだ。笑いは、それを感じる主体のみならず、笑いにより新たな笑いを誘発される客体の存在を意識させるのではないか。
笑いははじけとび、整合性のとれた調和を破壊する。ところで、笑い顔と日常顔は、それでも、同一の人間の顔として認知されえるのはなぜだろうか。こうした差異は測定可能であるのだろうか。笑顔と怒り顔が異なっても、それらはひとつの人格のことなる表れとして容易に同定しうるのだろうか。つまり、笑いとそれ以外の表情の格差に気づき、呆然とし、漠たる絶望へととりこまれることなどないのだろうか。覆い隠された物事の秘密があらわにされたとき、人は笑っていることなどできるのだろうか。
ともかく、笑いは個々人の生をさらけだすので、みているほうも楽しげである。だからこそ、笑顔がのぞきみせる無防備な一瞬が、いとおしすぎて、どうにかひとりじめしたくなる。破願一生にならなければよいなとは思ったりね。