六根清浄

ハルココロ
「六根清浄」

ホトケ語。六根とは五感(眼根、耳根、鼻根、舌根、身根)に第六感(意根)を加えた根幹。六根清浄は、六根から生じる迷いを、修行により断ち完全に調和した清らかな身、理想的状態にいたること。また霊山に登るときや寒参りに、六根清浄、と唱えるのだそうである。


過去の体験につながる道を歩くと心安らぐのはなぜかと考えた。思い出のよしあしにかぎらず、見知った風景や懐かしい空気にいきあうと、瞬間的に感じていた生の痛みが、確実な時間の流れにとりこまれていく。風景に記憶を連続させることで時間と空間はとけあう。時間でも空間でもない、もしくは時間であって空間でもある、という感覚が風景として目の前に広がるときに、どこかに越えていけるような錯覚を覚えるのかもしれない。

六根清浄をとなえる巡礼の旅というのもそんなものかな、と思った。聖地という非日常の場所をめざす道のりで、ひとは日常に塗りこめられた時間や空間の不浄性、そして不浄の集積たる身体からの脱却をめざす。未使用なもの、新鮮なものに対する憧れは、日本的な清潔志向かもしれない。とはいえ、日常の身体感覚が不浄であるなら、日常性を真に越えるには、時間でも空間でもない場所を目指す必要があるだろう。瞬間的に感じる感覚の集積が主体の意識を支えるなら、六根清浄、と叫びながら、意識を風景におとしこむことで、時間の軸も空間の軸も無いもっと広がりに到達できるのかなと思った。それが幸せを保証するかはわからないけどね。

http://d.hatena.ne.jp/haarhurryparis/20081006




ハルココロ

破顔一笑
顔をほころばせてにっこりと笑うこと。


顔を破るとはいかなることか。それは、例えば感情の横溢が、Burst into laughing にも共通する破壊力を伴うことを意味するのかも。それではこの場合の破壊力の対象はナニか。まずは弛緩した顔面の調和を破る一瞬のダイナミズム。認知可能な整合性のとれた表情が破壊される。


笑いという現象を人間特有のものととらえ、それを誘発するおかしみの構造やを社会化しようとしたのがかのベルグソンだ。笑いは、それを感じる主体のみならず、笑いにより新たな笑いを誘発される客体の存在も重要だ。

笑い顔と日常顔は、全く異なる人格であったり、通常の延長であったりと、個々人のの偏差が生まれて楽しげだ。わたしは自分の顔をみるにつけ、格差の大きい範疇にいれられるのではないかと思っている。そして、笑顔がのぞきみせる無防備な一瞬が、いとおしすぎて、どうにか自分のものだけにしたくなる。破願一生にならなければよいなという程度だ。

http://d.hatena.ne.jp/haarhurryparis/20081007