以心伝心

ハルココロ

「以心伝心」
言葉や文字によらないで、お互いの気持ちが通じ合うこと。「心を以って心を伝う」。もと禅宗で、言葉で表現できない心理を、師から弟子に伝えることを言った言葉。

ガイコク人として日本語の通じないガイコクにいると、以心伝心の不可能性をつくづく身につまされる。黙ることを知らないホトケビトに日本的美徳などまさに念仏。それはそれでよい。以心伝心の文化で育ったパワーを特技として異国で発揮するのは、それなりに効果を持つ場合もありうるからだ。ヨーロッパのインテリ層は、こうした事態を、東洋の神秘…くらいに勝手に解釈する可能性に期待してみれば、神秘の力の持ち主と崇められる明日が広がるかもしれない。
ただ、単純に考えても文字や言葉によらない表現行為は普遍的に存在する。世界をとりまく現象の全てを分節化などできない。言語は選択と判断の繰り返しにすぎないから。それを考えれば「以心伝心」は、単に非言語的伝達行為にとどまらない、ある種の静かな環境的様態をも含むのかもしれない。言語表現が未分化な世界の確定行為だとすれば、人が不確実な存在である限り言葉がやむことはないだろう。
動乱に巻き込まれ異国に定住していた男性が数十年ぶりに故郷に戻ると、すでに母語を忘れて話さないという報道を以前耳にした。母語を忘れるのはどういう状態か。複数の言語が共存して片方が徐々に消えていくのか、それとも言語以前の未分化な状況に突き落とされた後に新たな言語世界に入りこむのか。ずっと気になっているけれど分からないまま。シンボルは一対一の意味対応ではないのなら、非当事者には想像のつかない、苦しみのもたらす豊かな世界が広がるのかもしれない。忘れたくとも忘れられない痛みもあるのだ。