岡崎乾二郎「ZERO THUMBNAIL」@A-things

岡崎乾二郎「ZERO THUMBNAIL」@A-things(吉祥寺)
http://www.a-things.com/



先日、吉祥寺・東急百貨店横のオシャレ通り(=大正通り)側にあるギャラリー「A-things」で岡崎乾二郎展をみた。0号サイズの油絵を集めた展示。岡崎作品は雑誌の図版をみたことがあるくらいで、今まで実物をみたことがなかった。岡崎と言えばむしろ知的で難解な論文の印象のほうが濃厚で、作品の印象のほうは曖昧、つまり「たぶん抽象画…」…というショーモナイ分類ができる程度の予備知識しかなかった。


ギャラリーの明るい壁にならぶ色とりどりの0号作品を眺めていると、ホンモノから輝きだすエネルギーに身体的に圧倒された。そして「メディア」の経験につきまとう不自由な曖昧さの理由が逆に納得された。言葉や印刷物というメディアを介した平面構成や配置だけでは何が岡崎作品を「特別」にしているか分からなかったのだ。いったい図版などの複製は模式図である以上に作品を「記録」できるのだろうか。これは個々の「作品」の性質やメディアの質によって偏差がある気がする。岡崎作品に関しては複製化が不可能である気がしてならなかった。輝く色彩と触覚的な感覚は拒否しがたい感覚美を横溢させている。「作品」が魅力的だと媒介物の「メディア」はその弱さを露呈し負けてしまう。それは批評言語でも印刷物でも同じだ。言葉によって回収しえない美しく魅惑的な作品は、それを語ろうとすればするほど、作品の核にたどりつく手段など持ちえないことに気づかされる。そして自らの「言葉」の醜さと貧しさに気づかされ恥ずかしくなってくる。大人の脳による「理解」は言語中枢を嫌が応に介すわけなのだ。だから、ナニも言うまい、キレイならばそれでイイ…と無責任にながめていた。コルビュジエ画伯の作品みたいにつっこみどころが多いほうが喋りやすくはあるのだ。


帰りに道ばたをフラついていたら目の前に見なれないナイキストアがあらわれた。都内唯一の直営店なのだそうである(ナイキ「ショップ」はナイキの直営店ではないらしい…?)。セール中の紺ジャージー上下を購入、これならブラジルでも走れそうだな。