「藤森建築と路上観察」@東京オペラシティアートギャラリー(初台)

「藤森建築と路上観察」@東京オペラシティアートギャラリー(初台)


2006年にイタリアで行われた第10回ヴェネツィアビエンナーレ国際建築展の凱旋展に行ってみた。ヴェネツィアでの展示はジャルディーニに立つ吉阪隆正設計の日本館で行われたが、初台の展示はその際の展示を再現するかたちである。内容は日本チームのコミッショナーを務めた建築(史)家の藤森照信氏の建築と「建築探偵団」「路上観察」活動の紹介を中心とする。


まんが日本昔話に出てきそうな藤森建築、会場の中心を占める仮設のわら小屋は会場の一区画に敷かれたゴザの上に設置され、裸足で歩き回ると木の香りがただよいここちよい。オアシスに草を生やした弾頭型の土柱など土臭くて庭いじりしている気分になる。小屋の内部で流れる路上観察のスライド映像はニッポン的オヤジ同好会の空気感が伝わってきた。リビングにソファを置いても床に座ってソファを背もたれにテレビを眺めてしまう平均的な農耕民族的・土着なニッポン人的ライフスタイルが我が身にしみついていることを実感する。きっとイタリア人は「ニッポンエコナチュラル!」と楽しかっただろう…。


ちなみにヴェネツィアビエンナーレ国際建築展は美術、映画、建築、音楽、ダンス、演劇、アーカイブ部門で構成されるヴェネツィアビエンナーレの一部門である。最も歴史あるのは美術部門で、1895年にヴェネツィア市が地元の観光振興のために隔年制(biennale)のかたちで美術展を開催したのが始まりである。近代化の遅れたイタリアの強みは偉大な祖先の残した文化遺産…なのであり、並みいるヨーロッパ列強の中で生き残りをはかるため文化政策に力を入れていた背景があり、1937年にはハリウッド映画好きのムッソリーニの肝いりで映画祭(毎年開催)が開始され現在に至る(この頃、ファシスト政権は国産映画の製作に力を入れておりローマ郊外にチネチッタがオープンしている)。


建築部門は1975年から不定期に開催されていたものが1980年以降は隔年開催に決まる。ただし開始後しばらくは開催年度は多少ばらつきがあったようだ('82、'85、'86、'91、'96、'00、'02、'04、'06)。ビエンナーレ建築展は基本的に国家単位の展示と企画出品に分かれている。まずビエンナーレ全体のディレクターがその年のテーマを決定し、その後各国ごとのコミッショナーが国別にチームを編成し展示を企画構成していく。


日本の参加は1991年の第5回ビエンナーレからで以降毎回参加している。この時のテーマは「京都コンサートホール設計競技」で、建築展によくあるコンペ案の展示であった。ところが5年後の96年に開かれた第6回展で日本館は突如、大変身をとげる。この年、日本チーム(コミッショナー磯崎新)は「亀裂」をテーマに前年に発生した神戸淡路地震を想起させる展示を行い、参加2回目でみごと最高の金獅子賞を獲得している。展示は宮本隆司の写真、宮本佳明の瓦礫のインスタレーション石山修武のロボットで構成され、日本館全体をインスタレーションに見立てるものであった。この時の日本館展示は建築界にインパクトをもたらしたようで、賛否両論、喧々諤々の議論を巻き起こしたという。


ちなみにこの年のビエンナーレ全体テーマは「未来を感知する(Sensing the Future)」。地震計を思わせるこのテーマはディレクターであるハンス・ホラインと友人イソザキが相談して決めたらしい(それを思えば金獅子賞の流れも分からないでもない)。


要するに、その後東京で開かれたビエンナーレ報告会で語られたように、この展示の最大の意味は、「ヴェネツィア」という文脈で「日本」の「地震」を再現(representation)すること、つまりビエンナーレという国家レベルの政治的な影響力が発揮される場で日本の一都市の崩壊をテーマ化し国際的な文脈のなかにとりこむことがひとつの重要事項だったのだろう。例えば日本の地震を国内のどこかの美術館やギャラリーでぽつりと行われたのではそれだけのものになっていただろう。「展示」というシステムが、その規模が大きくなればなるほど、作品の完成度や面白さだけでなく、それを成立させる社会的かつ複雑な文脈に深く依存することを示す典型的な出来事であったかもしれない。


これは、逆に2002年の「漢字展」を振り返れば、展示された英文をみるとなぜか(…というより当然ながら)「Chinese Character」ではなく「Asian Character」と訳されていたりとか、かといって「漢字文化圏=アジア」では全くないし、アジア共栄圏と言い張るほどの理論的背景もない、とか、そもそも「漢字」という概念は日本人にとっては「自明」に思われるかもしれないけど、よっぽどアジアに理解のあるインテリなヨーロピアンでもない限り観客には理解不能で、そもそもそんな展示を「ヴェネツィア」でしてなにか意味があるのだろうか…とか、企画の矛盾と疑問の多さが悩ましい所である。


それはともかく、第6回展の成功によって…かどうかは定かではないけれど、その後の日本館はテーマ性の高いインスタレーション方式がある種の伝統?としてうけつがれ、2000年の「少女都市」、2002年の「漢字文化圏における建築言語の生成」、2004年の「OTAKU」、そして2006年の「藤森建築展」へと続いていく。これらの展示は建築展にありがちな建築資料や解説パネルの展示にとどまらず、会場の空間を作品に見立てる構成に力点を置くものであった。観客一般にとってはこちらのほうがとっつきやすいし分かりやすいしのはたしかだ。また各パビリオンで「図面、模型、写真」という従来型展示に変化が起きはじめたのも、少なからず日本館効果があったからなのだろうか。建築展の可能性を広げた画期的な展示であり、ビエンナーレという国際的かつ政治的なイベントでいかに「展示」を行うのか、日本のこれまでの展示が割合に意識的にとりくんできた姿勢が質として反映されているとすれば喜ばしい限りだ。


ところでヨーロッパで建築展を見ていたら日本の建築展のレベルの高さを感じる場合が多かったけど、これはなかなか不思議な現象である。明らかに日本人のほうが「展示」にエネルギーを注いでいる気もするし完成度が高かったりすると、しかしそれは単に日本の大御所と現地の若者建築家の展示が並べられていたからそう見えたのか、それとも「展示」を巡る何か意識の違いや構造的な理由や予算の問題が絡んでいるのか、それとも日本人はエンターテイナーなのか…。ともかく今回の藤森展でも感じたけれど、やっぱり自分の中の想像力と自由度を高め見えない場所にとびこむことがきっと大事なのだろうとも思った。

*管理人記録。5月11日から「ページビュー」をつけてみた。今年2月から設置した有料「カウンター」の調子が悪いと思っていたところにタダの「ページビュー」機能を発見。