「夏への扉」展@水戸芸術館★★★*

夏への扉」展@水戸芸術館
【評価】3.5(キュレーション4/作品3)



北風のしみる日曜日の朝、小旅行にでかけた。水戸芸術館で「夏への扉」展をみる。


日曜日の地方都市のシャッター街の風景は心にしみる。


展覧会は「マイクロポップ」の概念を中心に展示が構成されている。展覧会カタログ(マニフェスト本?)が面白くて、色々考えさせられるパワフルな企画だった。

マイクロポップ宣言
マイクロポップとは、制度的な倫理やイデオロギーに頼らず、様々なところから集めた断片を統合して、独自の生き方の道筋や美学を作り出す姿勢を意味している。それは、主要な文化に対して「マイナー」(周縁的)な位置にある人々の創造性である。(以下略)

とはいえ、作品を基点に展示を見渡して、気になったのは展示のコンセプトと展示された作品の乖離だろう。マイクロポップ論は自律した理論としての強度がある分だけ展示された多くの作品の強度不足が目についた。言葉で作品を語るのではなく作品から言葉を紡ぎだすことも必要かなとも思う。逆に言えば強度不足の作品は言葉を生まないし生ませない。



それと全体的に「子供」や「幼児性」をモチーフにした作品が多いけれど、作品としてのクオリティが気になった。例えば奈良美智が描く「子供」は「大人」が描いた「子供」であるのに対し、その他大勢の描く「子供」は「子供」が描いた「子供」だ。同じ「子供」をモチーフにするとしても、内的な幼児性から脱して外化しないかぎりは図画工作以上の作品にはなりえないわけだし、単純に作品としておもしろくない。


現実社会や美術表象の歴史において「子供」は必ずしも周縁的ではない。イマドキの日本の漫画、アニメ文化は子供向けの漫画雑誌やアニメを大量生産してきた「メジャー」な出版社やテレビ局に支えられて成長してきた。サブカル事情は詳らかではないけど、「幼児性」の文化はなにも「おたく」の専売特許ではない気もする。日本における子供文化が大規模な資本力に支えられ、ある世代のメジャーな共通経験化されていることは、消費立国ニッポン文化を大きく規定する。社会的に「周縁」的な存在というと、老人、病人、犯罪者、被害者、不法移住者、性労働者などなどカメラのレンズが拒絶する存在もあるわけで、美術表現がそうしたマージナルな対象に切り込んでも問題提起的かなとも思ったけど、商業化された「幼児性」が文化を下支えする日本では難しいのかもしれない。森美術館の会田のビデオ作品を成立させる複雑な文脈と戦略を思いかえす。