秋葉原駅前の再開発:★*

【評価】1.5 / 5.0(作品: 2.0/キュレーション: 1.0)

東京都現代美術館都現美)に行く前に秋葉原に立ち寄る。このあたりを歩くのはおそらく7-8年ぶり。


秋葉原の再開発の目玉は駅前の複合コンプレックス「秋葉原クロスフィールド」である。この中には、アニメスクールやら先端技術センターなどのオフィスビルUDXと小洒落系のレストランなど入るダイビルで構成されている。


秋葉原。体臭い。5分間歩くうちに鼻孔がやられてしまった。このすえた匂いはナニ…?街を歩く男性の比率が高いからか。


それは別として、イマドキの東京・再開発の失敗を実際に体験するには好例。長もちしなそうにない街である(*あくまでも勝手な独断です)。それではナニが失敗なのか。


少し視線をずらして、「美術館と街」というテーマについて考えてみた。


例えば、都立の東京都現代美術館。以前、東京郊外から地下鉄を使って美術館に行くには、東西線東陽町駅から、往来の激しい道路横のもしくは木場公園を通り抜けて美術館に這々の体でたどりつく経路しかなかった。工業地帯の空気は悪いし、道路の振動と騒音が不快で緑も貧相。美術館にたどりつくまでに、身体的にも精神的にも疲弊してしまう。だだっ広い石の館内をめぐるうちに、トホホ感にさいなまれるのである。


ところが、数年前に清澄白河駅半蔵門線大江戸線)が開かれ、美術館の街の風景は一変した。下町・深川を通り抜けて美術館にたどりつく経路ができた。これにより、工業地帯の辺境に位置づけられていた美術館が、江戸的な風情を残す下町の街並と結びつけられる。そのことで、街のありかただけでなく、美術館の体験そのものが変質した。


そう考えると、少なくとも、東京における街の開発の成功セオリーが、既存の空間構造内部に施設をいかにリンクさせるかが重要であるとわかる。そうした、空間の結び目探すしが、街や施設の魅力をひきたてる都市デザインの出発点だろう。そしてそこには、頭でっかちなこじつけではない、歩いて感じられる感覚的センスとそれを空間化する技量が必要となる。


それでは秋葉原


東京では六本木、汐留、品川、丸の内など、東京中で再開発という名の高層化が続いている。そもそも今の東京集中化現象自体が都市の末期症状としか思えない。どこも似たような、色気も個性もない、というよりそんなもの求められない、陳腐なプロポーションのガラス張り高層ビルは、東京の深層に潜む混濁状態のゆくすえを露呈する。


秋葉原の悲劇は、今の東京集中化の悲劇と街のコンテクストの無視の二つの矛盾が絡みあっている。秋葉原の開発がITやアニメ産業との関連で進める根拠として、秋葉原が長らく国際的な電気街、最近ではアニメ街として、PC関連製品やアニメグッズの販売店を集中させていたことがある。しかし、そもそも秋葉原はあくまで消費の場であり、実際にこの街が、個性的であるとしても、クリエイティブな場所であったというわけではない。


とはいえ、ビジネスやクリエイションの素地がないからオフィスビルを建てることを否定するのではもちろんない。そうではなく、再開発の根拠の脆弱さをごまかすように、「秋葉原」街という街の個性を否定する開発が、あまり品のよいやりかたではない、と思われるということだ。


そもそも秋葉原が山の手線内の手つかずの未開発の土地として大きなポテンシャルをもち、限られた土地を効率的に活用する意義も否定されるいわれはないだろう。だがだ。ショッピング至上主義の東京で経済原理にもとづく数値主義が文化を凌駕するのはは仕方がないとしても、ブルドーザーで蹂躙する暴力性を口当たりだけよい、かといってセンスがよいわけでもないハリボテテで塗りつぶすことに、東京再開発の嵐の行く末がかいま見えるのである。イマドキの都市開発の虚飾と奢りが、かなり意識的に行われていることにイマドキ・ニッポン文化の品のなさなのかもしれない。


パリの北の地にモンマルトルの風景が広がる…というとなんだかカッコいいけど、実際にはノーノーである。白亜の寺院の麓に並び立つのは中国,アラブ、アフリカ系のオジサンたちのバッタものやのストール群、そして昼間見ると色あせたムーランルージュである。そして、結構、臭い。だけど、その臭さはここで生活するヒトと訪れる旅行者の楽観性から発するものだ。この界隈は日本人を見かけることは少なく短パン姿の敬虔なアメリカ人の団体観光客が山道を闊歩する。雑多なものを雑多なままに受け入れ、それを熟成させるか、排除するか、見て見ぬ振りするか、対応の仕方は様々であるのは確かだ。


秋葉原の風景とはおよそ相容れないイマドキ系ビルにつとめる人々が、視覚的にも臭覚的にもディープな雰囲気でラーメンを食べたりするのは耐えられない…ということで、周囲をシャットアウトしたビル内にフードコートができた、という回路は分かる気がする。だけど、たまに秋葉原を訪れる身としては、秋葉原でお洒落な食事をするくらいなら上野かお茶の水まで行くかな…というのが個人的見解。やっぱり愛せる街で愛せるヒトと愛せるご飯を食べたい、のである。


街の再開発そのものを否定するのではない。不満に思うのは開発側の想像/創造力のなさである。これまでの再開発の成功例を思い出せば、都市の文化や文脈を無視する、もしくは蹂躙するようなやりかたは、「長い目」で見ればたいてい失敗しているということだ。日本独特の年度決算でみれば「成功」することだってできるだろう。だけど、いやがおうでも時間の蓄積を要する街づくりに、たった365日サイクルの原理を適応するのは賢くはないだろう。今現在、上手くいっているようにみえたとしても、もっと長いスパンで将来をみすえたときに、限界と破綻がやってくるのは目に見えている。


オタク臭をかもす街。男性の比率が高いこの街は、日曜日の競馬場や場外馬券場のようなどこか祝祭的な香りがする。そう、このすえたにおいと静かな興奮は競馬場のそれである。そして、それこそが、秋葉原らしさである。


ならば、開発も、そうした街の特性に合わせて配慮したほうがよさそうだ。たとえば駅前全体をバラックとストールを並べた開放的かつ闇市的な場所にする。縁日の境内に並ぶお好み焼きやたこ焼きやリンゴ飴など、決して健康にはよくなさそうだけど、店員に気を遣う必要なく、歩きながら食べられるお祭り的な食物こそ、この街にはぴったりだし楽しそうだ。それがだめなら、隣接する下町・外神田とのリンクをもっと際立たせる。ここまで書いてきて、こんな話、今まで沢山語られたのだろうしイマサラどうなるというものでもない、ことに思いいたる。ヒトはユートピアを思わずには生きることができないことに気づくだけである。