展覧会の点数づけします。

これから展覧会に通おうかと思っている。

「展覧会」になんとはなしの居心地の悪さを感じてはや数年経つ。他人の設定した枠組の中で「作品」を見ることに不自由さを感じることが多いからだ。

作品を作らないニンゲンの心、である。

モチロン、観客にとっての「展覧会」というのが、ものすごく単純に、滅多に見られないお宝的な作品を観ることを第一の目的であるとすれば、その存在意義は大きい。実際の作品をみることで、作品への参加→知的満足の回路は文化的にとても意義深いというのもわかる。

しかしだ。学生の頃から、人並みの頻度で美術館やギャラリーをめぐる経験の果てで、壁に向って、もしくは閉じられた空間で、「静物」を眺めることを強要される時間の中で、ふと、ナゼ?という疑問を感じた。そして、展覧会の会場に入ることで、そうしたナンダカ分からない疑問に無批判に参加・加担している自分に、ナントハナシの居心地の悪さを感じるようになった。そして、大人になるにつれて感性が鈍るのに比例するように、展覧会で作品をみる、ことから心へ突き刺さる感激的な刺激をえる機会は減っていった。

街、という解放された場で、じぶんの目がつかまえるナニかわからない気配のようなモノや現象に、もしくは単純に空を見上げてみえる虚空の中に、面白みを感じることのほうが、健康なのではないか。展覧会というシステムからなんとなくキモチが遠ざかる、遠ざかりたい、と思い出すきっかけだった。

「展覧会」というのは基本的に専門家の設定するフレーミングパースペクティブにより構成される。そこから生まれた場が、自分の予想したこともないような世界を提示してくれたり、または見たこともないような出来事に遭遇できることもある。そして、「研究成果」としての展示に触れることはオベンキョーとしてもすごく重要なのである。なので最低限必要な展示は見るようにしている…が、寝る間も惜しんで?と命がけにはなるはずもない。

だけど、「展覧会」の不自由さや息苦しさが、いつのまにか逃避の正当化となり、むしろ不自由な逃避の再生産にはまりこんでいるのかもしれない、という思いがもたげてきた。なので、逃げ惑っていた相手にとび蹴りするくらいの気概で、寒空の東京をすこしうろつこうかなと。