エイヒレ

黄金色のエイヒレ。薄いひだの軽やかさを残す干物、コレをこのままテキスタイルにも壁紙にもおうちのファサードにもモデリングできそう…と、しかし直火で焦げ目がつくまであぶって食べるのが正解である。美味しかった。

舌の上に生臭い快楽をかすかに残して去るエイヒレの干物。食とは破壊行為である。食の美貌は果てしない飢餓感を生み残す…という矛盾の循環。

その点で言えばカタチの美しさは幸せだ。あくまでも享受者として、美しければそれでいい、という気概でいけば、青空に浮かぶ雲を見上げるだけで、対象を破壊せずとも、それなりに充足した気分に浸れるからである。雲は刻々とカタチをかえる、それこそが美しい、と思える充足。そして美しいものが世の中に存在することを実感すると、生きているってスバラシイ…と思える。お金を稼ぐよりも、そちらのほうが、個人的には嬉しさの度合いが高い。

デザインの「官能性」というのがいかに実現されるのか、と考えると悩ましい。そもそも、カタチ、の概念もカンタンなものではない。とはいえ、初めてブロイヤーの椅子(リプロダクション)に座り、深く傾斜のついた座面へと沈み「こまされる」。柔らかいけど強引な力に、「椅子」に対する概念がくつがえされた。これぞ「官能」のデザイン的体験。

モノのデザインの背景には文化の蓄積があるのは当然だ。床座り文化で育った身体に椅子にゆったりと沈み込まされる感覚はそれがぶつけられるだけでカルチャーショックがもたらされる。当たり前すぎる感想だけど、異文化交流は誤解が理解、とも思う。とはいえ、「モノ」のエッセンスがみごとにカタチ化されていると、そのそばにいられるだけで嬉しくなる。


器用で賢くコピー上手なニッポンジンであっても、洋物文化のエッセンスをエッセンスとして認識しマネすることはなかなか難しい。身体感覚が伴うデザインの、カラダにアプローチする官能エッセンスをうまいこと表現するには、何がモノの「本質」であるか、まずそれを判断し選択することが必要だし、その際に、文化的背景から逃れきれない思考、理解、表現により偏差は当然生まれるからだ。


椅子やらベッドやら靴やら下着やら、身体に直接触れあってくるデザインは、少なくともわたしの身近にある安物たちにはなかなか「官能的」でいてはくれない。あまりに平和なのである。逆に、ヨーロッパの家庭のありきたりのベッドが、身を横たえてみるとスプリングのここちよい揺れにのり夢み心地で安眠できたり、イタリアの山奥の市場に並べられた安い革靴が驚くほど洗練されたデザインであったりすると(実用性はともかく…)、「洋物」に囲まれたニッポン生活は、ナニか大事な部分が取り落とされた経験を続けているような気がしてくる。


日本文化の洗練は別の方向に向いている、というのが、やっぱり当たり前の考えなんだろう。朝日新聞サザエさんコーナーに、50年代の広尾の風景写真がチラリと出ていた。市電の走る広々とした町並み。街並みとしては美しいけど世界一のカネモチになるための経済発展のためにはならない。効率一辺倒の色気のない街並みを選ぶことは、「豊かさ」を獲得する為の日本人のプラクティシズムでありひとつの選択だった。現実主義と事務処理なんかのシステムデザインに美しく発揮されているから、それを考えれば幸せでもあるのかもしれないけれど。「ニッポン大好き」!的な、現実逃避的なライト・パトリオティズムの環境にいると、自然とヒネクレ天邪鬼になる…のはバランス感覚かな。。