日本沈没

日本沈没』をみた…ただしDVDの1973年版である。



原作は440万部の売り上げとなった小説『日本沈没』(小松左京・作)。発売後数ヵ月後に映画化・発表され、その年のヒット作となった。


物語は、「「日本」がなくなることになったらどうなるか」的シミュレーションである。


日本列島沖の太平洋海底で不穏な地殻変動が起こりはじめていた。まもなく関東周縁で噴火と地震が頻発しはじめる。東京は関東大震災をこえる地震で壊滅的な打撃をこうむり、首都機能も麻痺し始めた。そして、あと1年弱で日本列島は沈没してしまいますよ〜!と…ではどうしましょうか…というところで、丹波哲郎扮する首相と小林桂樹扮するヘンテコ科学者を中心に、日本財政界の黒幕老人の支援を受け、日本救出作戦「D計画」チームが秘密裏に動き始める。そして、ナントカ「ニホン」を救おうと、「D計画」チームを中心とする群像劇が始まる。映画は沈没までの約300日間を映し出している。


ナニが面白いか…というと、「日本」沈没と想定したときに、ナニが描き出されるか、その時代的反映のありかたである。


たとえば、2006年に「日本沈没」が現実に通告されたとしたら映画はナニを映し出すだろうか(但し現在公開中の映画は未見なので、あくまで、以下、私家版『日本沈没』である)。


たぶん、イチバンの問題になるのは国際関係への影響だ。「日本沈没」は極東一の経済大国、かつ、アメリカのアジア拠点の消滅を意味する。アジアの地勢図は変化する。政治、経済バランスの急激な変動によりもたらされる結果が国連安保理問題で片付くレベルにおさまるとはとても思えない。ただでさえ、経済的に急進中の中国・インド(核保有国)が存在感を強める現状で、アメリカン・グローバリゼーションの中での日本の相対的な存在意義がみいだせない状況があるのだ。一国大国主義的な現在のパワーバランスがいっきに崩れるという予想もできるかもな。とかいって、わたしも沈没してたら、その後の世界がどうなろうと関係ないのだけどね。。


1973年版映画において中心的に描かれるのは、第一段階としての都市の崩壊、第二段階としての大量の「沈没難民」(ディアスポラ?)の発生である。そこで問題にされるのは、日本国内の都市と土地の喪失である。なので、ショボイ日本の外務大臣が仏像をてみやげに小脇にかかえ、カナダ首相にせっせと頼みこむのは日本沈没の際の難民の受け入れと移住地の提供である。


つまり、73年版における「世界」とは、あくまで日本国民が民族大移動をするための「土地」、生活用地にすぎない。丹波哲郎政府の対策は民族大移動に終始する一方で、「日本」消滅による国際政治への影響、政治的、経済的影響という視点はほとんどない。首都機能の移転、とか、そういうことも特に問題にされないまま、壁にクラックの入った執務室で丹波は働き続けるのである…。これは、逆に言えば、1973年時点で、日本人にとっての「世界」とは、あくまで外国でしかなかった…という意識の反映かもな。「国際社会の一員としての日本」という常套句さえなかったのかもしれない。日本が国際社会において影響力が相対的に低かった…というよりまだまだ「戦後復興」の国内問題が先行していた反映であるともいえるだろう。日本語における「世界」「国際」という語がいかに理解されていたか、そんな概念の移り変わりが映像を追うことで明らかになる。映像研究の可能性というのも感じないでもないわ〜と思いつつ、夏はすぎていく。



また、『日本沈没』において興味深いのは「地震」とそれによる都市災害の表象だ。同じように現代・東京の崩壊劇を描いた映画として『ゴジラ』1954がある。それと較べて考えると、日本の都市表象を考える上で、なかなか興味深い気がする。


日本に住む人間にとって地震のゆれや地震による被災風景はみなれたものである。地震は、逃れようのない自然の圧倒的な脅威として理解されてきた。まずは地面が揺れ、建物や道路が崩落し、どこからか火の手が上がり大火災が起こる。関東大震災でも、地震の揺れそのものによる建物の倒壊やインフラの破壊以上に、その後の火災が被害を深刻化させた。


明治以降の東京は関東大震災東京大空襲を経験している。1973年は、戦争の経験の記憶がまだなまなましく残っていた。『日本沈没』で大地震をきっかけに崩壊する東京の風景は地震と戦争の記憶にうらうちされている。


フシギなことは、戦争と地震、という根本的に異なる「力」により崩壊した都市の風景は、映画や写真というメディアを通すと、表象された図像そのものはかなり近似してくることだ。つまり、新聞に掲載された戦争写真も地震写真も、レバノンも神戸も、破壊の原因がなんであれ、都市の崩壊図(ruine)としてよく似ている、ということである。そこにある、政治的、経済的背景、さらには悲しみや憎悪という心象的な質とはモチロン関係なく、即物的に「壊れた」風景が記録される、もしくは再現される。


阪神淡路大震災のちょうど1年前、それも同日に起きたロサンゼルス大震災(ノースリッジ地震)は米国史上最も経済的損害をもたらした。とはいえ、地震の規模にもかかわらず、地震による死傷者や倒壊家屋の数は、ロサンゼルスの事前の地震対策と、そして震災が休日の早朝に発生したことにより最低限におさえられたという。


さらにロサンゼルスの都市直下型地震が被害を比較的すくなくくいとめたのは、地震発生直後に始動した、「地震」を「戦争」とよみかえる非常事態対策のおかげである、というのをどこかで読んだ気がする。つまり地震と戦争は破壊力でみれば同質、自然災害も人災も有事にかわりはない、プラグマティズムだ。


一方、日本の文化における地震は、人間の意志や抵抗を許さない圧倒的な力、である。地震、雷、神(×髪)、オヤジ、である。自然=神のゼッタイ的な力を前に、「日本沈没」の対策は「ナニもしないこと」…という学者たちの結論を前に、丹波総理は涙する。丹波総理は常に無力感にさいなまれながらも救助ヘリが来るまで闘い続ける。それでも「日本の死」を前にした敗北感は、ニホンジンと地震の関係を端的にあらわしている。


日本の災害観をよくあらわしているのは、やはり東京の崩壊を描いた『ゴジラ』第1作である。芝浦から上陸し、国会議事堂を目指して突進するゴジラは、水爆実験による化学変化で海底から誕生したゼッタイ的な破壊力である。『ゴジラ』と『日本沈没』が海底で発生する超越した「力」により都市を破壊する、という共通点をもつところに、日本の災害表象における「地震」と汎神論的な自然信仰、そして、外的力に対する諦念を感じさせなくもない。だからこそ、「日本沈没」とは、都市と土地の崩壊、という、あくまでも「国内問題」の発想に収まってしまったんだろう。


とはいえ、映画の中で、最初は渋っていた世界の各国も、実際に沈没が始まると、親切にも大量の「沈没難民」を引きうけてくれました…という結末は、「沈没」というテーマにくらべればなんとも楽観的だ。SFだからかな。「日本」がなくなり高笑いする国や機関は多かろうに(単純に利害関係としてね)。難民・移民受け入れ拒否国である日本のコクミンが、カネもインフラも失ったときに、どこがうけいれてくれるというのだろう。イマドキの「永遠の旅人」permanent traveler的お金持の方々のように、日本が沈没する前に、海外逃亡したほうがよいのかも…とお金はないけど考えたりもしないでもない。


とはいえ、物語が難民救助という「人道」テーマにこだわるのは、震災や戦争による風景を記憶する世代ののっぴきならぬ希求であったと考えれば、2006年私家版『日本沈没』の方がよっぽど平和ボケしている…とわれながら思う。他者の痛みをひきうけることの難しさ。


とかなんとか。若々しい藤岡弘いしだあゆみが演じるまばゆいばかりの野性的・肉感的カップルがすばらしい。個人的には日本映画・歴代ベストカップル賞をあげたいところ。若さと成熟があいまってセクシーでカッコイイ。イマドキの共依存的なチャイルディッシュ映画にはこのカッコよさはないなあ。


そのうち21世紀版『日本沈没』もみよう…見る前に想像つかないでもないけど。続編、リメイク映画は親切にみても90パーセントの確率でコケル…という映画製作の大法則(控えめにいえば経験則)を考えれば、映画館にいくよりもビデオ屋に行ったほうが…などと余計なことも考えるけど。草磲剛柴咲コウ及川光博も出てこないが(悪くないセッティングではあるが)、若きセクシーいしだあゆみ藤岡弘丹波哲郎が出ることで、個人的には十分だったりもする。