温故知新

ゆるやかに終わりへと近づいている。
夏休みだから温故知新、名著の旅をすることにした。

第1弾、田中角栄日本列島改造論』1972。
アマゾンの検索ではでてこないから、もう絶版なのかしらん。

いわゆる都市計画論である。

バカの壁やら、イマドキのベストセラー本のように、内容的にも量的にも読みやすいとはとても思えない。しかし、それを乗りこえ、現役の首相本が88万部のベストセラーになりえたのはなぜか。

(出版や執筆などこの本の背景、詳細を知らないので、以下、あくまで、読書感想文である。)


高度成長で浮上してきた公害問題、その解決には資金が必要、そのためには東京一極集中を脱却し、地方と東京を結ぶ交通を作りましょう、そのためには、やっぱり資金が必要なのです…しからばスクラップ・アンド・ビルドと国土大改造です…という論理展開である。

日本列島改造論』という題名そのものが、その後30年間で明らかになった、土建国家と利権政治、不良債権の山積みと借金地獄、省庁の無責任体質の諸悪の根源…を象徴する「悪書」の響きをもつ…かと思っていたが。


しかし、この本、意外と面白いのである。
では「悪」?はいかに甘い汁の滴る美酒へとなりうるか。


日本列島改造論』の主語はつねに「私」=カクエイである。つまり、「私たち」でも「国民」でも「ニホンジン」でもない。つまり、改造するのはオレサマであり、それを享受するのもオレサマである…という構造で支えられている。

日本列島改造論』に漂う異様な高揚感は、高度経済成長期に特有の進歩礼賛、科学万能主義…というよりも、それを超越したオレサマ作戦だろう。カクエイ的進歩史観がもたらした弊害をしる現代の目からみれば、内容や議論の粗に批判を加えるのは可能だろう。

しかしだ。そもそもこの大判ブロシキ的コテコテの都市計画論を、88万人の日本語読者の全員が理解できたとは到底思えない。イマサラ読めばフームという「都市」の常識も、72年時点では先鋭的だっただろうから。これを88万人の1割さえがフムフム理解し実践?してたなら日本でもモット「都市計画」が一般的になってただろう…。


ではなぜこの本が売れたか、ナニがキャッチーだったかというと、読んでいるだけで、妙に戦闘的なファイトがわいてくるからだ。『日本列島改造論』はダレもがカクエイとしての「私」になれる。時代を超越する高揚感がこめられている。

イマドキのポリティカルコレクトネスやら相対主義は「私」を許さない。つねに「私達」やら「ニホンジン」やら、もしくは職業とか、抽象化された集合概念に主語のありかを規定させる。つまり個人は社会で生きるときには、社会的属性により規定される。ヒトは、個人の名前としては生きていけないのである。

集合的な主体概念の裏に「私」が隠蔽され全体の一部として身を隠すとき、「私」は「私」であることから一時的に離脱する。「私」から「私達」への以降は、他者への共感や共同体への連帯であるときもあればむき出しの攻撃的エゴイズムの隠れ蓑になることもある。

だから思うのは、「私達」といった自己規定を棄てて、まずは「私」、というよりも、自分の名前、から出発することの方が、イマドキ大事なのではないかとも思う。


そこで思い出すのは耐震構造のアネハサンである。アネハサンは「一級建築士」という職業人として法的規定を犯して逮捕された。しかし実際の所、アネハサンは「建築士」という規定をのがれ、徹底してアネハサンでありつづけたと思えてしかたがない。というのも、地震立国ニホンの住宅問題やら建設関連業界の問題が浮上しさまざまなカタチで(不十分ではあるにせよ)議論されたけど、実際の所、アネハサンの他者依存的な破滅的な「私」の持ち主であったことが、結局の所、事件の根幹にあったようにみえるからだ。


アネハサンも、「一級建築士」として生きていくことを選び取ったはずだ。しかし、色々な状況や環境や他者が、本人の意思とは関係なく人生を奪いとっていくということは往々にある。そんな中で、図面を書き換えて鉄筋を減らし、取引先の担当者の喜ぶ顔をみる歓び…そんな破滅的な「私」的な欲求は、社会的な「一級建築士」という社会的なセルフを凌駕した。


アネハサンは常に、「建築士」ではなく「私」について語り続けていた。国会答弁での追求での返答は「きっと私が弱かったんでしょうね…」「妻がビョウキで…」などなど、「建築士」としての発言ではなく、真偽は別としても、「アネハサン」という個人として、私生活や心情を観客にかたりかけてみせた。他の「登場人物」にくらべ存在感と印象がダレよりも強かったのは、「一級建築士」としてのアネハサンが常に「私」でいたからだ。


テレビの前で「私」という主語で語り続けたアネハサンは常に「(元)一級建築士」としてあったはずだ。一級建築士という資格がなければ、図面を偽造したところで犯罪者になどなりえないのだから。

そして、諸悪の根源としての犯罪者は、いつしか「耐震構造事件」のマスコットボーイを演じ始めていた。だからこそ、すさんだ自邸の玄関前で、ちぐはぐなほどキチンとスーツを着こなしていた。そして、「一級建築士」としての「私」と「アネハサン」という個人としての「私」の役割を巧妙に使い分け、イカニモ油ギッシュな悪人面の周辺人物にくらべ、ナンダカ憎めないオッサン、という立場を確立し、下請けの悲哀というストーリーを設定することで、職業上の「倫理的」批判をスルリと回避していった。


アネハサンのレトリックに対する分析がほとんどなされぬまま、アネハサン同情論=関係者バッシングが続いたのは日本的批評状況だわ〜と思わないでもなかったが、それより、アネハサンが「アネハサン」を演じ、「私」について語り続けたのはおそらく確信犯としての行為だ。そこには、予定調和的な破滅の場面を予感させながら、予定調和な結末に向けて、観客の目を楽しませることに無上の喜びを覚えるという「アネハサン」がいた。肥大化した「私」を隠すために、虚偽を身にまとう、どこかマゾヒスティックな「アネハサン」を演じた。


とはいえ、「アネハサン」により語られた「アネハサン」は、どこまでが「アネハサン」だったのだろうか。「私」という主語の真実性や確実性は、実際のところ、ナニによっても保証されていない。


最後の瞬間までかぶり続けたカツラは、「私」という主語の不確実性をあらわにする。毛髪や頭皮が身体の一部として、「私」の領域に含みこまれるとするのであれば、「私」とはカツラと同様に着脱可能であるといえるかもしれない。そのときの気分やその日の相手に合わせて、スタイルを選んで身につけかえる。「私」とは、実際にはその程度のものでしかないのかもしれないのだ。肥大化したセルフと折り合いをつけるためにヒトはナニかに、誰かになろうとする。何かになりきるうちに、ヒトは「私」であり続けることを不明にしていく。

アネハサンが最後にカツラを脱ぎさったとき、「アネハサン」と名指された対象があらわになった。そして、「私」という主語の不確実さにこめられた闇の深さをみせつけられるのである。これから一定期間、部屋番号で呼ばれることになる人物の、「アネハサン」という名前をも奪われたすがたを見るのである。

とはいえ、虚飾であるからこそ、闇が深いからこそ、ヒトは個人の名前で生きることを必要とされるのだとも思う。個人の名前以外にヒトがヒトとして存在する手段はほとんど存在しないからだ。一級建築士の第一号として、カクエイ氏はアネハサンの先輩にあたる。そして、カクエイ氏が一級建築士・逮捕者第一号であるとすれば(違うかもしれない)、アネハサンは直系の弟子ともいえるかもしれない(違うかもしれない)。有資格者のメンバーシップで拘置会とかいう派閥を作れば少しはか・ねたになるかもしれない。

それはともかく、二人の「建築士」が「私」を語ることを武器に生き抜こうとしたその挑戦は温故知新的にみならうところがある気がする。「私達」やら「ニホンジン」とかいうレトリックにとらわれていたら、『日本列島改造論』が魅力的なベストセラーにはならなかっただろうし、アネハサンも根源的な罪、つまり虚飾として肥大化したセルフを断罪されることはなかった。「私達」という匿名へと逃れずに、ナニが、ドコまで可能なのか。二人の「建築士」のみちのりをたどるのである。。。



【眠い】つづく
今度はテッラーニ
http://www.geocities.jp/haarhurry_new/essay/terragni.html