モデュロール人間

酷暑にあえぎ雷におびえた本日、大汗をかきながら宣伝。



先日、フィルムアート社からPracticaシリーズの新刊

『Practica 日常を変える!クリエイティヴ・アクション』(フィルムアート社)
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…が出版されました。そこに、「モデュロール身体論」的な短い文章を書かせていただきました。ル・コルビュジエの欲望的身体はモデュロールによって分節される…てな身体論です。本屋さんの美術関係の棚にあるかと思うので、ぜひともお手にとってご覧くださいませ。


拙稿はともかく、Practicaシリーズはオモシロイです。「アート」を「芸術=ハイアート」の呪縛?からときはなち生活圏から問い直す試みです。今号は身体特集のようです。

西洋美術のセンセイをしていると、日本にいながらにして御・美術をいかに知識以上のものにいかに迫るか…ということに悩んでしまいます。モチロンわたし自身の問題として。

ワダスギ問題しかり、日本における輸入文化としての「西洋美術」にすけてみえるのは身体感覚の欠如である気がします…言い古されたことではありますが。悪舌ベルルスコーニ元首相が欧州議会で浮き上がっていたように、同じヨーロッパ文化圏でさえローマ帝国的ブラックユーモア感覚は共有されない(それが正解)。いわんやカラダをや。肉体を介したvolupteという感覚が、概念以上に腑に落ちているか…といわれると、しょせん貧相なわがみを思うのでした。

身体表現はなんらかの身体経験の反映であれるとすれば、他者の身体表現をコピーしたままで違和感を感じずにいられるのは決定的に鈍感なのか、そもそも「身体」の表現になど関心などなく、カンヴァス平面に描かれたフラットな像を「視角」的精密さでひたすら模倣するだけなんだな…と改めて思うのでした。銭湯の湯室に描かれた富士山は湯浴みの暖かさで心を解放する、ことを考えれば、美術市場とそれを支える政治力を背景としたハイアートよりも、コピーのコピーとしての機能としての富士のほうが、精神的には健康な気もします。