状況証拠とイタリア語

harukomatsumoto2006-07-13

ジダンジダンの頭突き事件の余波はまだ続くようである。

この際感情的といわれようと完全にジダンの味方になりたい気もする。とはいえここは冷静にイタリア語における「侮蔑語」文化について考えた。イタリア語できないけど…。

問題はきっと、ジダンマテラッティのコミュニケーションが、フランス人とイタリア人の間で、「イタリア語」でなされたからではないかと思う。ネチネチシツコイタ〜リア的悪舌、「母や姉について屈辱的なことを言われた…」というジダンに対し、イタリア国民の反応…「「売春婦」なんてダレだって言うで〜」。そうなのか…。元元首ベルルスコーニ氏を思い出せば、そうかもなあ…とも思う。


イタリア語は悪口表現が豊かそうである。悪口以外の表現も豊かなのだろうけど、とりわけ罵詈雑言で、相手からうまく反応を引き出せたときの残酷なコミュニケーションが成功した瞬間がイカニモ楽しそうだ。マテラッティしかり。言葉は文化そのものであり文化の反映であるだろう。

悪口表現の豊かさの証左。

イタリア語には「侮蔑活用」がある。侮蔑活用とは、名詞の語末を活用し、侮蔑的意味をもたせることである。語末に「-accio, -astro, -onzolo, iciattolo, ucolo」などをつけると、侮蔑、形状の醜さ、小さくて粗末…などの意味が加わるらしい。

例えば…

casa(家)→casuccia(ミソボラシイ家、掘っ立て小屋)
poeta(詩人)→poetastro(ヘッポコ詩人)
uomo(オトコ)→omiciattolo(小さくて不細工な男)


だそうである。

「活用」の利便性は、どんな名詞でも、固有名詞でも、侮蔑活用が可能であるということだ。harukiciattola.(自虐活用)


ともかく、侮蔑表現が「活用」としてシステム化されている事実は、「侮蔑」コミュニケーションがイタリア文化の根幹に関わることを意味している。侮蔑活用は侮蔑語にひそむ暴力を制度化し記号化することは考えられる。


倫理的判断を抜きにして(異文化に倫理判断など不能である)、「侮蔑」表現の豊かさはイタリア文化的特徴であるのかもしれない。少なくともフランス語の基本文法で「侮蔑活用」なんてでてこなかったし、ピューリタニズムの英語ではPC的にアウトだろう。偉大なるイタリア語教育。


モチロン侮蔑語、侮蔑表現はどんな言語文化にも存在する。そもそも侮蔑活用が現実生活で使用されているかは知らない(文学表現かもな)、マテラッティも使ってなかったのではないかと思う。オペレッタ的イタリア語のリズム感と「悪口」は相性がよいのかもしれない。単語レベルでシステム化されていたほうがアッケラカンとしていて単純でよいのかもしれない。逆に、日本語のように訥訥と平板な言語で、侮蔑がシンタックス化するほうがヨッポド陰湿で恐怖へとつながるのかもしれない。


考えれば、日本語、特に標準語における「悪口」語彙は貧困だ。悪口…の典型例を書こうかと思ったが、他称・文学者、オゲヒンな言葉はイヤだわ〜…というより、ことばが出てこない。それでも真っ先に思いついたのは、子供時代に言われた、オマエノカアチャンデベソ…(「貴君の母堂の臍部は突出しています」)という、あまりピンと来ないひとことであった。日本語の場合、侮蔑や悪口より威嚇語のほうが有力なのか。オンドリャーナメトンノカ〜とか。何弁?ともかく知的刺激よりも肉体的危機をに訴えることでしか悪口コミュニケーションできないとは。


空にはりめぐらされた電線をみるたびに、日本人がいうほど日本文化って豊なのかな〜…と思わないでもない。言語の成熟度が文化の成熟の一指標であるとすれば、悪口の成熟度で日本文化の底値がはかれるのかも。イタリア的悪口コミュニケーションは汎ローマ帝国文化的な言葉遊びであり、文化の成熟度を表しているのかもしれない。成熟とは熟れることであり、腐りかけの果実ほど甘美で隠微な香りを放つのであるから。


とはいえ、問題はジダンダである。


侮蔑が活用をのりこえ意味の世界にまで侵略してきたことが悲劇である。ジダンダ頭突きにより、言語はツールでありながら文化であることがマザマザと知らされた。つまりは、フランス人ジダンはイタリア語は話せてもイタリア的な侮蔑語文化を共有していなかったということだ。自由平等博愛が、実効性や実質性はともかく、せめて理念として掲げられている文化のほうが個人的にはヤッパリステキ…だと思いながら「異邦人」を読み返す猛暑である。