ル・コルビュジエの変身:「ル・コルビュジエ展」@森美術館

ル・コルビュジエ展」@森美術館
http://www.mori.art.museum/contents/lc/index.html




今日というタイミングを逃したらこの先2週間は行けそうにないので、煩わしい梅雨空の下、六本木で「ル・コルビュジエ展」を訪れる。


たぶん世界中の建築業界でもっとも語られ愛され憎まれてきたであろう建築家、ル・コルビュジエ。本名、エドゥワール・ジャンヌレ。建築展としての展示構成そのものは割合に教科書的で「ル・コルビュジエを知るAtoZ」という副題にすれば調度よさそうな気もする。巷にあまたの「コル本」があふれている情報過多なニッポン的状況でチョット物足りないのかな…。


美術サイドから見れば、ピュリズム時代以前/以後を含めた大型の油絵をまとめて見られる機会は貴重だ。近代芸術の革新を背景に、絵画を絵画の枠組みで昇華せずに建築化したことがコルブ氏を建築史の中で全く逸脱した存在たらしめている…とする仮定はやっぱりひとつの正しさだと思う。タイセイ・ギャラリーで継続されてきたル・コルビュジエの絵画方面からの研究アプローチの集大成として意義深い展示になっていると思う。


ちなみに終生「画家」であることに憧れた凍部ではなくコルブ先生の油絵、ヘタではないけど上手くもない。これは定説という気もするけど、絵画を食べて建築を作ったと考えれば非常に建設的な遣り口である。芸術におけるスタイルの模倣(影響?)はどんな作家も通過する過程だしコルに限らずどんな作家にもあるけれど、モランディ風の最初期ピュリズムからレジェやらピカソまで、同時代の作家の作風をどん欲に取り入れているのを見ると、コルブにとっての平面は最後まで創作というよりもスタディの場であったのではなかったか、とも思う。


コルブが画家として最も欠けていたのは画面のフレームを乗り越えるダイナミズムだろう。芸術というプラットホームにおいては、「モノ」が「作品」としての価値を得るのは「モノ」が「モノ」であることを超越する瞬間だ。「作品」の面白みとはある種の超越的エネルギー、つまりはユウレイ的要素であり、それが無いからたぶんコルブの絵画はつまらない、逆にそれがあるから建築空間のほうは面白い…と個人的に思うけれど、せっかくなので作品をみながらその理由を考えた。


画面構成を眺めるとコルブ画のひとつの特徴は、描かれた対象とキャンバスの間の中途半端な間(ま)であることに気づかされる。キャンバスという物理的なフレームの中に画家自らが別のフレームを設定することで形式と内容に乖離が生じてしまい、キャンバスを突き抜けるような「世界」が生まれてこない。これはコルブが黄金比などの外的比率を画面構成として優先した結果だとも言われるけれど、むしろその絵画に描き込まれた「間」という空間こそが職業建築家であるコルブの挟持ではなかったか。


「枠組」は「デザイナー」と「画家」の職能の分かれ目だとも思う。枠組の中で構成する能力と、枠組みの中で世界を突き抜けようとする能力、枠組みを突き破ろうとする能力、枠組そのものを設定する能力、などなど。方法、認識、レベルは違えども、枠組のイン/アウトを選択する判断力は理性的に見えて割合に所与の感性的な部分のに関わると思う(だからこそ村上隆は画家である前にデザイナーだと思うけど)。


そうしたキャンバス内部の二重化された枠組と隙間は描き手にとっての自己規制/防衛線のようにも見える。絵画と枠組の間の乖離はジャンヌレ/コルビュジエの間の乖離そのものの表象であるかにみえる。展示から浮かび上がるのは小心者のジャンヌレと強気なル・コルビュジエという2つの人格だ。自らを縛りあげる枠組みを越えたいけれど超えられない長身痩躯のスイス人が、丸眼鏡や蝶ネクタイを見にまとい、自ら築きあげたパリジャンとしての「ル・コルビュジエ」という人格をかぶると、突如、強気なラテン系建築ファイターに変身して世界をつきぬけるような空間を提案する。「ル・コルビュジエ」になりきりながら最後まで絵筆をとりつづけたのもキャンバスの前では小心者に戻れるからだろうし、生命的なバランス感覚が働いたのかな、と思った。そもそも日曜画家×7くらいのコルビュジエにとって、絵画とは筆を動かし対象を写しとる行為そのものが重要だったのではないかしらん…などと想像する。


ル・コルビュジエの作家としての魅力は、作品における矛盾やズレ、それに対する自意識が濃密ににじみ出ていること…というとあまりに作家主義的思い込みな言辞だけど、少なくとも多くの建築や建築家に滅多にみられないナニかがあり、それについて何十年もの間、語られようと表現が模索されてきた対象であるのだろうとは思う。矛盾のないものに魅力はない、そこに解くべきナゾが存在しないから。


模型より絵画よりナニヨリ、展示で何よりも目を引いたのはガラスのケースに並べられた遺品である。黒ぶち眼鏡2竿と身分証明書。おなじみの黒ぶち眼鏡は生々しい身体性を伝え、小難しい顔写真つきの身分証明書はコルビュジエ/ジャンヌレの存在のあり方を伝える。この二つの変身道具を通してコル様の矛盾さかげんにググッと近づいた気がした。フランス政府発行の身分証明書の署名は「ジャンヌレ、通称ル・コルビュジエ」、職業は「文学者」(諸芸術家?)と書かれていた気がするけれど(←不確かです)、こういうのもありなのね…と思う。単純に仕事上の名前を併記したほうが便利であるからか、それとも深読み?すれば、スイス・アルプスからフランスに帰化したのは「ジャンヌレ」でオシャレなパリジャンであるのは「ル・コルビュジエ」であるという区別なのか。二つの人格の共存とそれに伴う変身願望…。あまりに人間くさくて他人の気がしなくなってくる。他人だけど。