天上の青

あまったボジョレを飲みながら考えた。


曾根綾子『天上の青』をひといきに読みあげた。連続強姦殺人魔・宇野富士男(ヤリタイ放題末っ子)と純粋(×敬虔)なクリスチャンである波多雪子(克己的な長女)の間に生まれた心の交感を軸に物語は展開する。


連続強姦殺人魔として76年に処刑された大久保清死刑囚がモデルなのだそうである。小説の根底には、大久保が一審の死刑判決に控訴しなかったのはなぜか、という問いかけがある。


わたしが生まれる前の事件なので当時の世相など知る由もないけれど、『天上の青』の問いかけは、ここ数年で、幼児を殺めて控訴せず、死刑台へ昇る、昇ろうとしている存在とアクチュアルな問題に思いを馳せさせる。


物語の核心は、最終部で、富士男が獄中から送る「もしあなたが(自分を)愛していてくれるなら、控訴はしない」という手紙に対し、雪子は悩みぬいたあげくに「私はあなたを深く愛していた」と返事する場面とされる。ここで個人的に興味をひかれたのは、日本における「キリスト教」が決定づける物語構造だ。


「罪」をめぐり「個人」と「社会」の葛藤を問いかける視点は、近代キリスト教の思想により提示されたパースペクティブだろう。個や公共の概念が未分化な日本文化では、「罪」はより実際的、物理的な問題である。つまり「罪」を人間の存在律の問題として形而上学的、理念的な水準で問う発想は起こりがたい…のだと思う。


とはいえ、逆説的に言えば、日本語で、日本文化の中で、「死」や「罪」について語ることの利点は、「罪」を西洋的な意味での宗教の枠組からディペイズする可能性をみせることである。


たとえばユダヤキリスト教的な意味で、人の存在律を死を介して原罪の問題として問いかける回路が抜き去りがたく存在してきた。十戒から七つの大罪まで、キリスト教の歴史は罪と欲望と死のヴァリエーションをコレデモカと見せつける悪趣味列伝で飾られる。

一方、アバウトでプラクティカルなニッポン的発想や文脈では、死はリセット装置であり解放のための方法論であり、自殺が地獄行の切符にはならない。仏教とアニミズムがイマドキの日本文化といかに結びつくのか知識の及ばない所だけど。ともかく死が「禊」としての浄化行為でありハラキリが一種の美学として肯定的に捉えられるというのはあるだろう…。あくまで日本人としての生活実感だけど。


キリスト教における「殉教」があくまで教えに殉じたキリスト者への非キリスト者による罪の犠牲…として位置づけられるのも、逆説的にいえば、自(=個)死(=否定)を認めない文化な思考回路が働いているのかもしれない。日本の自殺率の高さは自死を容認する文化的背景の裏づけによるのだ。だからこそ、チョット困った状況に陥っただけで、子供だけでなく大人も状況に対する解決策を探る前にドシドシ「自殺」を選んでいく。病的に自殺に追い込まれていく精神状況というのは分かるけれど、子供に安易な解決策として自死を選ばせてしまう社会環境は単純にすごく不気味だし、それこそウスッペラでアホクサイ「美しい国ニッポン」の本質なのかもなとも思う。


とはいえ、信仰がなくても助かるヒトはたくさんいるし、信仰があっても助からないヒトも同じくらいに多くいる。宗教が本質的な解決をもたらすわけでもないし。むしろ、『天上の青』で雪子が語るように、人生の筋道は運の有無で決定されていく、というほうが日本文化のナマの感覚的には正解なのかもしれない。宗教は助かるヒトを助け、助からないヒトは助けない…。


絶対的な存在は認めてもどの宗派宗教にも加担したくない…と幼少の頃から思っている。それは単純に、ユダヤ教を基盤としたキリスト教の体系は日本化されるうちに少なからず異質な教えとならざるを得ないこと、ならば日本でキリスト教をする必然性とか、日本の教会のある種の衒いや排他的なスノビズムみたいなものに違和感を覚えるからだ。そんなことを言っても理解も共感ももたれたことがない…以前に制度としての「宗教」とか「信仰」の問題がイマドキの日本社会ではほぼドウデモヨイ関心領域であるのだろう、とは思う。少なくとも日本では宗教関係者は基本的に冠婚葬祭業者だと思うしそれでよいと思う。既成の宗教とか哲学に頼らずに存在や生を理解し受け入れる方法もあるはずだ。だけどたぶん、日本で「マイナー」なキリスト者としてあろうとすれば、どこかでぶつからざるをえない問題だと思う。だからこそ、教条的な態度を拒否する『天上の青』はそのあたりの日本的な宗教観のありかたと可能性を映し出しているのかなあ…と思ったりもした。とりとめないけどそんな感じ。