真相

早朝からうららかな初夏の光に照らし出される気持ちのよい一日。家と宅急便会社の間をダンボールを抱えてエッチラ往復していたら、すべての結果が出ていた。なので機嫌がよいのである。スッキリ。

結果のひとつめ。恐怖・心霊DVD事件である。発売元に問い合わせてみると、カール・ドライヤー『吸血鬼』、初回限定版DVDにかぎり、発売当初から不良品が相次いで発見されたそうな。「2001年発売直後から2年間ほどは弊社ホームページでお取替えキャンペーン告知をしてたんですよ〜」とのこと。良心的。

やっぱり恐怖DVDだったのね〜…と裏づけされ、カエサルのものはカエサルへ…と現物を返送した。だけどこれってすでに絶版なのよね〜。(続く)

結果のふたつめ。秘密。たいしたことではない。フフフ。

結果のみつめ。じぶんのことではない。先日の日記で、盗作画伯もダリの格好をしてきたらいいんじゃん、とネタ的に書いた数日後、ダリ展のプレイベントで爆笑問題太田光)がダリの格好をして登場してけっこう受けていた。ウーン、ダレでも考えるネタだったのね…と、だけどテレビ受けしている様子だったのを見て、こういうのは自己満足的にチョッピリ嬉しい。芸術選奨レベルのギャグ。なので残されたのは最後の巨匠?モナリザだけである。期待しちゃうわ〜。人体図のマネでは変質者になるので。

それにしても。テレビをみながら、盗作疑惑画伯、つくづくキャラがつまらない。

ではなぜつまらないか…と考えると、アネハサンに較べて他者の想像力をかきたてないからだ。想像力のないヒトは他者にも想像力を与えないのかしらん。メディアを通して浮き上がる表情や服装や発言…それがスベテだし、それ以上のパーソナリティを期待させない。どんな黒い噂が出てきても、このヒトならさもあらん、よい噂が出たって、まあ情報戦術かな…という以上の関心をかきたてない。「盗作」という社会的問題を犯したヒト、という認識以上の関心をこの画家に抱けない。

メディア受けすればよい…というのはモチロン短絡的だろう。とはいえ、「美術」という制度がはらむバカバカしさabsurditeと、それをイカニモ珍重がっているフカカイさそんな、フラジルさと不合理さがあまりに戦略性のない方法で露呈したことは、まあお粗末だし、そのお粗末さってこのお湯割りかげんだな…と勝手に思うのである。

少なくともイマドキの美術において作家や作品の「独創性」やら「創造性」はゼッタイ的な価値である。ただどんな価値も相対的である。美術品の修復では「模倣」技術の洗練は欠かせないし、重要な専門技能であるのは確かだ。とはいえイタリアなどと比べ美術品の少ない日本で「模倣」技術の需要は少ないだろうし、「芸術家」としての出世の道は険しかったのかもしれない。そこで、模倣の専門家が「独創性」「創造性」を「偽造」した…。日本であればそれで数年は上手く行くのだからチョロイもんやね…とまで、ご本人は自覚がないのかもしれない。倒錯画伯に感情移入できないメンタルバリアはそうした行為に対する無神経さと無自覚さが見え隠れするからだろう。

ともかく、もっと見るものを裏切る奥行きがほしい。それが芸術家が本来みせるべきイリュージョンの魔力である。「芸術」という制度はイリュージョンと分かちがたく結びついている。そもそも「制度」とか「肩書き」そのものが共同幻想で成立しているのだ。模写がオリジナル以上のイリュージョンを見せてはいけないという理由はない。

ならば、面白くだましてくれる方がダンゼンよいのである。模倣家なら、独創性や創造性などという言葉にとらわれず、徹底して模倣するのがイチバン美しい。完璧にモナリザになりすまして、背中に背景を背負って出てきてくれれば、イタリア歴の長いという画伯のトリッキー株もだいぶ上がるだろう(顔立ちもチョッピリにてるし)。いや、それよりスギ氏のソックリサンになって出てきたらもっと面白いだろうな〜と、そこまでしてくれないと満足できない。