非・東京風景2:伊勢神宮編

二日目は伊勢神宮


熊野を下山し新宮駅へ。駅そばの熊野速玉神社をみてから3時間に1本の各駅停車に乗り込み湾岸列車を北上していく。レスタック・ジャポネな風景を眺めながら「非東京」に思いをはせた。東京に住んでいては決して実感できない中央/地方の格差が風景となって現れる。それはまぶしいほど美しい。東京が和歌山にあればなんて贅沢な日々が待ち受けることだろうな。



メッカ、エルサレムサンティアゴガンダーラ、などなど、ヒトは聖地へ向かって歩いた。世界の多くの宗教が聖地への巡礼の旅を奨励したのは、信者が肉体的苦しみを伴う経験を通じて自己や絶対的存在と向かい合うことで、空間のもつ聖性、つまり現世の先に存在するであろう「神」の国を空間体験し、生のあり方を変貌させることになるからだろう。


とはいえ、庶民にとって巡礼は一生に一度あるかないかの宗教にかこつけた楽しい観光旅行でもあった。「伊勢は7回、熊野は3回」と、ひとが一生のうちに詣でるべき回数をうたった謡曲らしい。しかしひなびた山奥の熊野三社に詣でるのは3回が限度、それより食べ物屋さんが多くてお魚も美味しく洗練された伊勢に10回行ったほうが楽しいかもしれないな(暴言其の1)。



とかいって、伊勢神宮は想像以上に凄かった。国家は宗教で支えられている、というか、国家は宗教であることを圧倒的なパワーで感じさせられた。国家も宗教も概念であると同時に社会的、精神的な制度であるから。昔の大島渚映画の撮影セットのような?虚無的な風景。天まで立ちはだかる丸柱の巨大な無意味さが、目の前に深々とあけられた見えないヴォイドのようで、なんだかそらおそろしくなった。それでもできたての赤福3個+番茶=280円は噂通りのまろやかさで、甘さの中に気の遠くなるような虚無が忍び込む。



などと感動していたら、帰りの電車をまんまと乗り過ごした。伊勢市駅前の庄やで2時間後の電車を待つ。サザエのつぼ焼きをいじくりながら、どうせなら東京も古式ゆかしい伊勢方式で式年遷宮したらいいのに…と、現実的な建設コストや移転費用をまじめに考えると厳しいから、せめて国会議事堂くらいなら既存の市民会館とか議場で代わりにどうにかならないかな…などと考えた。国会議員は地方選出(=非東京)議員のほうが圧倒的に多いのだから、それで不便になることは原理的にはないだろうし、そうすればいま話題の議員公舎も民間に払い下げられる。さらに「東京」を政治システムにおいて周縁化させることにより首都一極集中の流れが多少は緩和されるだろう。


だいたい、ニッポンのようなお祭り国家、NHKが紅白の後に流れる除夜の鐘の映像とともに、国会議事堂をかたどった神輿をかついで、国会遷宮!とか叫びながら練り歩く映像を流せば、年越しイヴェントとしてまったく無意味な感動を呼び起こすこと請け合い。それに47年に1度、今年はわが県に国会がやってくる!とか思えば、なんだかそれだけでみんながハッピーになれる気もする。国会遷宮予算とか計上し、またその1年間は開催都市の問題を重点的に扱える優先権を与えられるとかして、その1年に向けて各都道府県がそれなりに整備をがんばれば復興の基盤作りにもなる気もする。それに国会・沖縄年なんてそれだけで楽しげではないかしら。オリンピックよりもよっぽどみんなのためになる。


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