邪宗門


ナニをする気もせずにいる正午にひさしぶりに「邪宗門」に入ると、ナニかが違っていた。原因は音楽だった。天井の巨大オンボロスピーカーから有線放送のフレンチポップが流れ、寒々とした場所に投げ出された気分におそわれた。長い時にきざまれた空間の中で、なぜも伝説のDJマスターがすりきれたLPレコードの音源を流しつづけていたかが、その不在によって思い知らされたのである。無機質で薄っぺらな電波を流すのに思いいれなど必要ない。時間は止まったままにみえてもつねに流れ消えていく。だからこそ音楽は時と空間を波立たせることで蓄積された記憶を浮かび上がらせ生をつなげていくことができる。芥川龍之介の「邪宗門」を何年かぶりに読み返し、未完の作品であることを想いかえした。人も場所もまた、破綻した物語に結末をつけかねて未完のままにしつづけるのかもしれない。ちなみに喫茶・邪宗門のお手洗いは今現在で非・水洗で、国立駅の駅舎よりもイマドキ稀少性と保存価値があるのかもしれない。