シディ・ラルビ・シェルカウイ『アポクリフ』

シディ・ラルビ・シェルカウイ『アポクリフ』@渋谷Bunkamura オーチャードホール

先日、某大先生のお勧めで久しぶりにダンス舞台の鑑賞に出かけました(アリガトウゴザイマス…)。
以下、備忘録。

現在、ダンス通のみなさまの最も話題をさらっているという、ベルギー人振付家、シディ・ラルビ・シェルカウイ。本公演はベルギー王立モネ劇場で初演が行われヨーロッパ各国で話題をよび、日本では文化村にて9月4〜5の2日間、公演が行われた。舞台に立つダンサーは振付家のシディ・ラルビ・シェルカウイと首藤康之+ディミトリ・ジュルド。音楽はコルシカ島出身のアカペラグループ、ア・フィレッタ。
http://mv-theatrix.eplus2.jp/article/159741189.html

シェルカウイは、アントワープ出身で父親がモロッコ人、母親がベルギー人。イスラムキリスト教を肌身に感じながらミクストカルチャーの環境で育った自身の出自がというのが本作のコンテクストとしてある。ゲイテイストの濃い舞台のありかたもバイオグラフィ的なのかな、ともかく舞台の完成度は高かった。セノグラフィーの勝利かな。

ただ、それよりも、日本で海外のカンパニーの舞台を見て漫然と感じていたことが、この日、久しぶりに思い出された。

時間は距離によって規定される。当たり前のことだけど、そんな単純な事実が思いだされた。時間的距離は縮められても物理的距離はおいそれと縮められないということだ。東京からパリの距離は、どんなに通いなれても、あいかわらず1万キロメートルかなたに離れているし、現代の大型旅客機は、席種や快適性にかかわらず11時間あまりの飛行時間をかける。

興行側の距離と一般客の距離は比例しているかも、と思えたのだ。オーチャードホールという比較的大きな会場だったからか。前から30列目だと、オペラグラスがなくてもダンサーの存在は認知できる。けれど、大きな舞台で小さくかすかにダンサーの身体の生々しさは、こちらが相当の覚悟と構え(と経済力?)をたもてないとなかなか伝わってこない。

ここではダンサーのクオリティがかぎとなるだろう。首藤が羽を這わせるように指先をわずかに動かす。全身の筋力がかると微細な精神が指先にまとわれる。はりつめた緊張感が力を得ると視覚と聴覚の関係が破られダンスの時間が現出する。はりつめた筋肉がわずかに指先を動かすとき、舞台が揺り動かされる。首藤の動きが持続した瞬間だけに感じたもので、今回はごく短いものだったけど、舞台から観客席の距離が克服された気がした。

視覚は直接的だけれど触覚的であるには受けての素養と構えが重要になるだろう。舞台を捉える視覚を通じて素人なりにダンサーの身体に一体化してみることで、何がしかの身体性が獲得できるだろうか。舞台を揺り動かす身体性がなければ大きな会場を満足させるのは難しいだろう。

その点、聴覚に秘められた直接的な浸透性がひしひしと感じられた。ダンスよりもむしろコルシカ島出身のアカペラグループ、ア・フィレッタが民族音楽である多声合唱・ポリフォニーを駆使し、舞台を席巻していたのもこのあたりが理由だろう。ア・フィレッタは浅黒いスキンヘッドの南欧人の黒衣集団の存在感は圧倒的だ。アルプス以北の白い身体が、天上的というよりも薄く弱く見えた。声の響きはときに視覚を超える。顔は変えられても声は変わらない、見つめた風景は忘れても音は時間にこびりつく。音は存在にしみこみ瞬間の記憶を喚起する。

負けるダンス、弱いダンス。舞台上で操られていた文楽人形のように、敗北が逆説的な勝利となることもあるのかもしれないしね。

シディ・ラルビ・シェルカウイ
http://www.asahi.com/showbiz/stage/theater/TKY201008300203.html
http://www.kajimotomusic.com/upload/3a8debbceb1a411a33276fa7a224e8b21277288889japanese.pdf