ヴァンサン・カッセル最新主演作『Le Moine』

革命記念日の14日から週末にかけての連休は部屋にこもり仕事漬け。最後の日曜日に社会復帰をかけて、家族とレ・アールの映画館にでかけた。

☆★☆★☆★☆★

ヴァンサン・カッセル主演の封切映画『Le Moine(ル・モワン/僧侶)』。先日、ラジオのフランスアンフォでカッセルのインタビューが流れていた。フランスでよく見るな…と思っていたら、そういえばこの人はフランス人だった。『ブラックスワン』のコレオグラファー役など個性派の印象が強い。

17世紀スペインの荒野に立つカプチン派修道院を舞台に、順調に出世し誰からも崇敬される神父(ヴァンサン・カッセル)が出生の謎と煩悩に苦悩し運命に巻き込まれ悲劇的な最後をとげる心理劇。原作は18世紀のゴシック小説家マシュー・グレゴリー・ルイスによる1796年の同名小説。

ウィキペディアによれば、この小説は3度映画化されている。1972年にブニュエルの脚本で映画化された後、90年にイギリスでリメイク版が製作された。禁欲と情欲の相克がもたらす悲劇は南欧のカトリシズムにおける神学以上の最大のテーマだと思うし(神との関係は免罪符で解決される程度なので)、映画の題材としてももってこいだ。映画監督にとっても、スクリーンにとっても、魅力的な題材なのだろう。

最新版の監督はフランスのドミニク・モル(Dominik MOLL, 1962-)。パリの国立高等映画学院(IDHEC)を出て1994年に監督デビュー。前作『Lemming』ではシャルロット・ゲーンズブールやシャルロット・ランプリングらスター女優が出演し、2005年カンヌ映画祭コンペ部門のオープニングをかざった。

オープニングで、荒野の修道院のスタジオ模型を背景に、“Le Moine”の朱色のタイトルが浮かび上がる。初期カール・ドライヤー映画を思わせるレトロな雰囲気。人気俳優ヴァンサンが荒野をさまようところなどパゾリーニを髣髴させるし、この監督、きっと映画の好みが自分と似てるだろうし話が合うかもな…と思った。学生時代にドライヤーやブレッソンやら浴びるように見て映画についてヤンヤと議論しながら、「俺の手で失われた時代の映画を再現したい…!」という思いを抱きながら企画を手に入れた…という背景を勝手に想像した。映画愛好家が多かれ少なかれ抱く欲望の実現がスクリーンに投じされている気がしたからだ。その是非はともかくとして、映画の完成度を見れば、映画製作者としての力量と映画青年的な思い込みがどうもかみあはない。

作品として大きな欠陥はないと思うし1時間40分で過不足なくうまくまとめていると思う。国立映画学校で若い頃に映画的エリート教育を受けた監督のうまさだろう。

しかし、単なるレトロ趣味と切り捨てる批判が出るなら、それを抗す論点として、たとえばいまが旬のヴァンサンを主役に据えているところや、セックスや殺害のシーンを暗示にとどめて安易な衝撃映像に頼らない品のよさ、という批評の本質からややそれる点しかみあたらない。

根本的な問題は、きっと、監督の素養と物語のテーマにずれがあることだろう。物語のテーマである修道僧の肉体と精神の乖離という古典的な問いかけに監督や脚本家がどこまで自分の存在に接近できたか。それを考えて作品を眺めていると非常に心もとない気がした。南欧的な自然と人間、宇宙と肉体の関係性、という深遠なテーマをナラティブとしてどのように処理するか。切迫した問題意識も関心も欠落しているため、切りこむナイフに鋭い切れもないし切りこむ深さも足りない。全体的にイーヴンにできている分、全体的な物足りなさを残している。

そんな中で俳優陣はしっかり仕事をこなしてがんばっている。それでも、どうも、制作者側が、昔の巨匠たちの映画のイメージに安易に依存するのをよしとしているところが気になるし、彼らの現代的な解釈、創造性がみられないところがこの映画の最大の欠陥だろう。

たぶん、物語の核にある情念のレベルの抗し難い煩悩や宇宙的な意思に左右される運命という次元が、監督にとっては遠いままであったことが原因にあるのかもしれない。たとえば、乾いた自然の中にたつ修道院やカラスの映像など、象徴的なナラティブを成立させる重要な映像が、かなり安易に、スタジオ撮影もしくはCG処理されている点は、…モルさん、これでよいと思ってるの?…と問いただしたくなった。制作側にしてみれば、そんな表層的な表現や記号性が「現代性」と主張するかもしれないが、CGの人工的な質感と相性のよいジャンルや表現とそうでないものがあることは製作者として自覚すべき。

映画においては表現の甘さは表現の奥行きをころしてしまう。表現者としての詰めの甘さが作品のしあがりを台無しにしていのは明らかだ。

ヒッチコックのようにスタジオに箱庭と観察のためのキャメラで完全な人工世界をつくりあげてほしいし、それはそれで技術的に解決可能だろう。モル映画だと、上記の象徴的シーンが、ロケで撮り忘れた(もしくは撮れなかった)→スタジオに模型を並べて撮影→編集でつけたし…?現実はそんなに簡単でないだろうけど、、。

観念的なものいいかもしれないが、フィルムが自然や空間を成立させる知覚を越えた知覚を記録できるある種の受動性が「映画」に残された強みだ。人間の知覚でできあがったCGは人間の知覚世界を越えることはできない。結局は現時点で知覚は環境的な閾に幾層も限界づけられているからだろう。

知覚を対象とする表現者が、そこに自覚的であるかないか、つまりは自分の表現がどこまで切り詰められえるか、追及し続ける能力は創作者の根本的な資質にかかる。資質があれば天才だしなければただの人で、たぶんモル監督は後者だろう。結局はこの監督、天才肌の監督がすきそうだが本人は天才肌ではないのだろう。このテーマはあまりにこの監督には手に負えない感じがする。それはそれでよいと思う。天才なんてそうそう出てこないほうが世の中健全なものだ。

☆★☆★☆★☆★

ならば、もっと建設的に考えよう。お悩み相談的に、モルさんが毎年新作を発表できる、スピルバーグとは言わずとも、フランソワ・オゾンくらいの人気モノに出世するにはどうすればよいだろうか(前作『Lemming』でスター女優を起用しながら今回作発表まで6年かかっているところは、諸事情は知らないけれど、フランス映画って大丈夫なのかなー、とは感じる…)。

回答としては、これまでに習得したまっとうな技術を生かし、自分が実感として理解しうるテーマや、自分の素養にあわせたジャンルを、背伸びせずに、自分をごまかさずに選択するように心がけること。

モルさんの個人的好みは古典的な不条理な情念系心理劇にあるのかもしれない。しかし、本来身の素養は別のところにある気がしてならない。「俺ってアーティスティック!悩みも多いです!」というセルフイメージをかなぐりすて、もっと軽い、多少くだらないタッチのコメディ系ホームドラマが学園ドラマを手がければ、俺ってアーティスティックなインテリ…的な自意識も自虐的な悲哀あるスパイスとして働くだろう。もしくは『真珠夫人』や『娼婦と淑女』のようなドロドロ系ソープオペラもいいかもしれない。あれはかなりテクニカルなパワーが必要だし、モルならいける。どんな仕事もくだらないとはき捨てずに映画作りにまい進すればそのうち佳作を生み出すだろう。他人事は偉そうに書けるからね…。

ちなみに、そもそもスペインを舞台にしてみんなフランス語を話しているというのもどうなんだろう…と思った。けど、それってベルバラの国から来た日本人に言われたくないよ…と一蹴されそう。