ダルデンヌ兄弟『少年と自転車』Le gamin au vélo

カンヌ映画祭の受賞作や話題作を見ようと調べてみると、パリでの一般公開は8月のヴァカンス明けに設定されている場合が多い。たとえば前評判が最も高かったが無冠で終わった、アキ・カウリスマキル・アーヴル』や、フランスが男優賞を獲得した『ジ・アーティスツ』、もしくは、映画祭追放という前代未聞の処分をくだされた(しかし、個人的には、作品に立ちこめる監督の根性の悪さと底意地の悪さを芸術性と一般的に曲解されてきた(?)ことが理解できなかったので、今回の処分はある意味もっともだと思う)ラース・フォン・トライアー監督の『メランコリア』など。


映画祭開幕期間中に公開していた作品のひとつが、ダルデンヌ兄弟少年と自転車』Le gamin au vélo。今年、ブラピ出演の『トゥリー・オブ・ライフ』にパルムドールをもぎとられたが、めでたく次席に相当するグランプリを受賞した。ダルデンヌ兄弟は、労働問題など社会派ドキュメンタリー映画を多く手がけ、1987年の『Falsch』で物語映画に転向し、その作品群は世界の映画祭で高い評価を受けてきた。


ウィキによれば、『少年と自転車』を構想するもととなったのは、ダルデンヌ兄弟が2003年に『息子のまなざし』のプロモーションで日本を訪れた際にある女性判事から聞いた話であったそうだ。ある少年が、自分を捨てた屋根の上にのぼり、父親の帰りを待ちわびたという話。
http://fr.wikipedia.org/wiki/Le_Gamin_au_v%C3%A9lo


舞台はベルギーのフランス語圏、リエージュ郊外。初夏のできごと。少年シリルは若い父親に育児放棄され児童養護施設で暮らしていたが、シリルの若い父親は自分の車と息子の自転車を売り払って行方をくらませる。事実を知ったシリルは心をすさませるが、ひょんなことから自転車を買い戻してくれた美容師のサマンサを慕い、彼女の家に引き取られることになる。シリルはサマンサとともに父親を探しあてるが、新たな生活と人生の再建を求めた父親は息子を完全に放棄する意思を示す。心をすさませ情緒不安定となったシリルに近所の不良グループのリーダーが接近し強盗を実行させる。シリルは本屋の店主を襲って手に入れた売り上げ金を手に父の元をおとずれるが父にあえなく拒否、通報されてしまう。家庭裁判所の処分により、シリルは罪をみとめサマンサは賠償金の支払いに応じることで和解が成立する。二人は平穏な生活を取り戻したかのように、川辺で自転車を走らせピクニックを楽しむ。その日の夕方、シリルはサマンサに頼まれバーベキューの材料を買いに街中にでるが、そこで本屋の店主父子にばったりと出くわした。怒った息子に追われて森に逃げ込み、よじ登った木から転落してしまう。シリルはしばらくして意識を取り戻すと無言で森から出て行った。


ダルデンヌ兄弟の長編作品でははじめての夏の作品。画面ににじむシリルのTシャツの赤と郊外の町を軽快に走り抜けて森へとつなぐ自転車を、手持ちカメラが涼やかに追う。大人に翻弄されてきた少年が自らも少しずつ社会のシステムに組みこまれていく人生の一断片をさらりと描いた成長物語。


ダルデンヌ兄弟が聞いた屋根の上で父を待つ少年は最終的には非行の道をつきすすんだという後日談がつけくわえられという。一方、ダルデンヌ兄弟がつくりあげた虚構世界では、シリルは木の上から落ちながらも立ち上がりサマンサのもとに帰っていく。こどものたくましさ、と解すこともできる結末を残すこと、スクリーンのこちらがわで見ているわたしたちに子供たちの後の人生の想像をゆだねられ、希望の余地を残すのがダルデンヌ兄弟の作品の特徴だ。


とはいえ、ダルデンヌ兄弟イゴールの約束』1996の少年イゴール外国人労働者の斡旋をなりわいとする父親を助けていたが、父親の違法性に反発して父の元を去ろうとする)、『ある子供』2005の青年役ブリュノ(18歳の恋人との間にできた子供をわずかなお金で売り払ってしまう20歳のこそ泥)を演じたジェレミー・レニエ(フランソワ・オゾンの『POTICHE』でカトリーヌ・ドヌーブの息子役として登場したベルギー人俳優)が、今回は自分の人生をやり直すために子供を捨てる若い父親役で登場することから、シリルの今後の人生も、「現実には」、父親と同じような人生をたどる、すくなくともそれほどろくな未来は待っていないであろう、と、暗澹とした想像を喚起する物語構造となる。それを、直接語るのではなく、トリュフォーにおけるピエール・レオのように、ひとりの俳優を少年、青年期をかけて繰り返し登場させることで、俳優の実時間と肉体を虚構世界にとりこむ手法により、観客に対してもうひとつのメタ物語を語りかけるところが、ダルデンヌ兄弟の映画的テクニックだろう(この場合は前作を見ていることが前提だけど)。


人は自分の受けた虐待経験を子供や友人に対して繰り返し加害者から被害者へ主体から客体へ自己を転化することで傷を癒そうとする。最後に出くわした本屋の息子に、シリルが気まずそうに「謝ったからいいじゃないか」と言い返して、加害者に対する被害者の憎悪を逆に深めてしまうところに、シリルの精神状態の深刻さがあらわになる。この二人の「息子」の対決があらわにするのは、本屋の息子が示す家族関係の中で醸成された父親への信頼感とそれに伴う感情であり、またそうした感情を理解できないでいるシリルが示した情緒未発達だ。シリルの精神的な傷が深すぎて、サマンサのような庇護者がいても傷は簡単には回復しないしその優しさは一時的な慰撫以上にはならず、他者のいたみに共感できないままでいる。想像力の未発達や世界に対して精神が閉ざれた状態が、本当はもっとも恐ろしいことなんだろう。


あえて難をつければ、音楽はチョット…というところもあるけど。たまに挿入される音楽を聴くにつれ、この大雑把さそのものが演出なのか、と頭をひねらせられるけど、映画全体からみればたいしたことではないのかもしれない。作品がつきつける大きな問題はもっと別に立ちふさがっている気もするので。

アニッシュ・カプーア展@エコール・デ・ボザール

インド出身で英国を拠点に活躍する彫刻家、アニッシュ・カプーアAnish KAPOOR。
パリでは現在、カプーアの展覧会が3か所で同時開催されている。
その中のひとつで会期のもっとも短いエコール・デ・ボザールでの展示(Chapelle des Petits-Augustins de l’Ecole nationale supérieure des beaux-arts)を見てきた。


BMW財団主催のコンクールで復元されたというボザールのシャペルに入れるのは貴重な機会。

正方形の木製の台の上にセメントをチューブ状に積層させた2.5mほどの長方形のタワーが14体(だったと思いますが)、礼拝堂の身廊に2列左右対称に配置され、教会内部に新たな身廊が出現したようである。セメント彫刻のフォーマットはすべて同一だが、そのマチエールは各タワーで異なる。彫刻のかなりブリュットな質感が、一見すると手仕事風だが、実際にはコンピュータ制御マシーンでデザイン、制作されたそうだ。ひとつひとつのタワーの差異が機械的セリーとして調整されたことにより、いびつに見えながら全体として整然とした統一感をもつ。建築の原型を思わせる構築的形態、ブリュットな自己生成のモチーフなど初期カプーアの作風が思い出された。

環境を風景化すること。インスタレーションを展示空間に設置したときに、どのような風景を生成させるか、その構想力と実現力が作品としての成否を決定する。風景は主観で捉えられたイメージであるなら、展覧会の風景は、展示側が作品展示を通じて鑑賞者の知覚する環境を操作し風景を誘導する役割をはたす。

環境としての展示空間をいかに解釈するか。この解釈が失敗すると設置作品は視野の中の異物となり作品風景は構築されない。今回の場合は、ボザール内部の普段は閉じられた礼拝堂という空間的環境や内陣のミケランジェロ天地創造』や聖堂内に置かれた棺を思わせる仰臥像など、割合に宗教性の高い既存作品の中に、カプーア作品をいかに設置するかが問題になる。

そこで、カプーアは抽象的な黒ずんだセメントのヴォリュームを選ぶ。このセメントのマチエールが、荒々しく起伏を描きながらひとつの独立したアーキテクチャーを存在させるところに、人体と内臓器の関係を自然と想起させることが鍵だ。内部を持った抽象的なヴォリュームは、褪色した宗教画=キリストの肉体の死や解剖体を模した仰臥像のとなじみ、 “異様”の風景を現出して視線を奪う。展示空間内部に入りこむと、鑑賞者の身体を包み込むヴォリューム感、彫刻の間を通り抜ける動線のスムーズさや、絵画や彫刻群、カプーアのセメント彫刻が無理なく鑑賞できる展示場の“心遣い”に、売れっ子現代作家に共通する実利的な機能主義を感じさせられた。

カプーア作品にみられる“空虚”、今回は四角く囲まれた面の隙間に穿たれていた。内部をのぞくとうす闇の中でセメントがくだを巻いている。時間の断絶が隠されているようで、いったん隙間から身を話して外部の空間に顔を向けるとモニュメンタルな展示空間の風景が広がる。

隙間の中の薄闇もまた風景の一部とすれば、そこには何が見えるのだろうか。現代美術と古色蒼然とした倉庫のようなシャペルがで、隙間からのぞいた薄闇にはモノに対する相変わらずの偏執が隠されていて、モノ作りの行為がそれほど単純ではない回路を含むことをあかしているように思えた。

美しい国、という幻想(1)パリ建築遺産博物館の場合

エッフェル塔の正面にあるシャイヨー宮のパリ建築遺産博物館にて、現在ふたつの環境・景観系の2つの展覧会が同時開催されている(会期はともに2011年3月23日 - 7月24日)。

ひとつはフランスを中心とする都市緑化プロジェクトを紹介した"La ville fertile(肥沃都市)"展
もうひとつはドイツ系ブラジル人で1994年に亡くなったランドスケープアーキテクト(フランス語だとpaysagisteペイザジスト。ちなみにいわゆるランドスケープlandscapeに相当するフランス語はペイザージュpaysage)でロベルト・ブーレ・マルクスの回顧展

都市計画研究所時代の友達が、勤務先のあるブリュッセルから両親の実家のあるパリに復活祭休暇を利用し週末に戻るというので、会うことになった。わたしが日本食レストランの選択をし、彼女が展覧会の選択をした。環境・景観ゼミ時代の同級生であるので、建築遺産博物館という選択は最初はとくに気にも留めなかったけれど、約束の日本食レストランへいく途上で、彼女のポルトガル系フランス人という出自とサンパウロでのゼミ旅行中の彼女の流暢なポルトガル語を思いだした。ロベルト・マルクスのコロニアルスタイルの自邸をみると、ポルトガルって感じだよね、と嬉しそうに語っていた。

ロベルト・マルクスサンパウロ生まれのドイツ系ブラジル人。ベルリンで絵画を学んだ後にブラジルに戻り、リオの国立美術学校で学ぶ。造園家としてルチオ・コスタ、オスカー・ニーマイヤらと協働し、またル・コルビュジエのプロジェクトに参加し、土と緑にあふれ草いきれで充満する生命力溢れる庭園を建築や都市にもちこんだ。世界各地に活躍の場を広げ、晩年の1993年にはクアラルンプール空港にあるペトロナスツインタワー(設計はシーザー・ペリ&アソシエーツ)下の植栽を手がけた。フランスでは、パリのユネスコの庭園にパティオを作ったり、ポンピドゥーセンター4階のテラスをてがけ、フランスとも浅からぬ関係があり、1983年にはパリ・ラ・ヴィレット公園コンペの審査委員長をつとめるなど、フランスとの浅からぬ関係があった。ちなみにその活動は造園家にとどまらず、多彩で、植物採集を行い自邸の温室で栽培しながら、傍らで、画家、彫刻、版画、陶芸、舞台美術、宝飾デザインをエネルギッシュに手がけ、沢山の業績と大量の作品を残した。展示では、自邸で開いたホームパーティで、ドイツじこみのオペラを朗々と歌う老人となった造園家の映像が流れていて、南欧系のエネルギッシュなオジイチャンは本当に人生楽しそうである。そのパワーが、ロベルト・マルクスをブラジルを代表する造園家の位置づけに押し上げたともいえるだろう。

ちなみにロベルト・マルクスが近代建築の文脈でブラジルを代表する造園家と位置づけられるようになったのは、造園と建築、都市を一体化させる総合的な活動のためであったようだ。ロベルト・マルクスは自らのプロジェクトの計画図をキュビズム風の油絵風として残している。逆に言えば、造園と絵画を結びつけることで熱帯の緑の空間に同時代の抽象絵画の構成をもちこんだことがみそだ。友人に、なんで今ロベルト・マルクスの回顧展なんだろう?と疑問をぶつけたら、ウーン、彼はブラジルのような熱帯の植生の魅力をヨーロッパのペイザジズムに持ち込んだことに功績があったのだと思うよ、と教えてくれた。

ロベルト・マルクスがヨーロッパと南米を結び新たなペイザジスムのありかたやその価値を創りだしたとして、それでは、なぜそうした人物の回顧展をこの時期に行ったかを、さらに政治的に考えれば、フランスにおけるペイザジズム、というよりはペイザジストという職能の地位を確立するための動きがあるだろう。そこには、グランパリ計画にみられる、ペイザージュを軸にした都市整備によるヨーロッパ全体の環境政策の推進と都市の再編成がある。

美しい国」という掛け声が日本では数年前に政策化され、しかし首相たちのあいつぐ交代のうちに、いつのまにか雲散霧消となった。この言葉の胡散臭さ、偏狭さ、素朴さの陰に隠した恐ろしさを、本当はここであげつらって書きたかったが、“美しい+都市”と“美しい+国”が、似ているようで、その背後の政治的意図、権力構造がまるで異なることを、大地震が露呈した日本国家の原発政策の利権主義の破綻は“美しい国”というレトリックのもつ真実を露呈した、と思うのだ。

話を極東からオフランスに戻すと、近年、フランスの都市計画ではペイザジズム(英語だと、ランドスケープアーキテクチャー?日本語だと、いわゆる“造園”が近いでしょうか…)がますます重視されるようになった。その背景似は環境問題のグローバル化、そしてヨーロッパ全体における環境の共通政策化があるだろう。そこで、ペイザージュに対する関心を高めようと、建築遺産博物館やパリ市の建築都市計画局が運営するパヴィロン・ダルスナルにおけるペイザジスム絡みの一連の展覧会や講演会である。

いわゆるスターアーキテクトに相当する、スターペイザジスト(←造語です)と位置づけられる方々が、ごく少数ながらも、いなくはない。ただ、彼らペイザジストの講演会を見にいくと、お顔立ちも表情も一様に品良く、控えめで、寡黙でありながら、朴訥とした喋りをする方々が多い。たとえばクリスチャン・ド・ポルザンパルク先生のような、唾を飛ばして機関銃のように喋り捲る自己顕示の権化のような多くの建築家+関係者たちとは、生の次元が異なる気もする。理論武装した建築家や都市計画がたにくらべて庭園家たちは言葉がたたないからだろう。緑とたわむれてよい空気を吸いながら仕事をしているとこんなに変わるのかと思うほど、若いときに植物を選ぶかコンクリートを選ぶかで、人間の人生はだいぶちがってくるのだろう。 

これは、多少偏見をまじえて言えば、都市計画業界の表舞台で、様々な意思、権力、利権と協調、妥協しながら利権争いを繰り広げる肉食系の建築家や都市計画家たちにたいし、ペイザジストが環境的価値を彼らの提案するプロジェクトに対して付加する役割が求められてきた、もしくは、いる、ことも関係あるのだろうか。ピエール・ドナディウなどは著書の中で、ボザール系の建築学校を卒業した建築家や都市計画家に比べて、フランスの国家的ペイザジストの大半を輩出した少数精鋭の名門・国立ヴェルサイユ庭園学校(ヴェルサイユ・ペーザージュ学校に改変)で、建築学校の学生が卒業時に国家公認建築家の資格を取得するように、ヴェルサイユ学校の学生が国家公認ペイザジスト資格Paysagiste DPLGを取得しても、“造園家”の賃金が相対的に低いことを指摘していた。ペイザジストが特に華やかな舞台にたつ建築家に対してかなり地味な存在であったのは事実だろう(誰も公園や川辺の植栽に“作者”がいるとは、多くの人は考えないだろう)。

名誉欲と自己顕示欲の権化と化しがちな建築家たちに比べて(…といったら怒られそうだけど)、そんな俗世の名誉などあまり気にせず、土と緑で美しい景観を作りあげるぞ!ぼくは自分の職能を全うするのだ…!という、これもかなり偏見まじりかもしれないが、ペイザジストという存在の清新さは、泥臭い都市づくりのなかでは一種の美徳のシンボルかもしれない。

ただ、ペイザージュが、建築のはしたもの、もしくは単なる観葉植物か緑の添え物、いわば刺身のつま、であった時代が少なくともヨーロッパではすぎた感がある。近年の環境志向の高まりに伴い、フランスのコンペでは、環境コンサルタントやペイザジストのコラボレーションが必須条項に掲げられることも多い。ペイザジズム重視の流れが急速に高まる中で、ペイザジスト側からの発信、発言力の強化をめざしていた。そんな意識が、少なくとも一部のペイザジストたちの中で芽生えているのは、パヴィロン・ダルスナルで行われるペイザジストの講演会の司会を務めるミシェル・ペナ(←都市計画研究所で講師をしてた…)の言葉から垣間見えていた。もしくは、より政治的な流れとして、環境都市づくりの目玉としてペイザジストと彼らの計画を都市整備の中に積極的にとりこむことで今後の都市拡張を進める国家的な意図が働いているとも思われる。

そんな流れの中で、最近ではスターアーキテクトならぬスターペイザジストの傾向が生まれている。フランスのスター・ペイザジストとしては、建築家のように個人事務所を経営し(政府や地方公共自治体のみに属すのではなく)、メディアにプロジェクトに顔と名前が出ていて、著作があるようなペイザジスト、がそれにあてはまるだろう。

たとえば、フランスは1989年以来、フランスの国家的な都市計画家(ユルバニスト)を毎年選ぶユルバニスム大賞を開催しているが、2000年代に入るとペイザジストが大賞を受賞し話題となるケースが出てきた。2000年にはアレクサンドル・シュメトフ(ポール・シュメトフ先生のご子息)、2003年にミシェル・コラジュー(1992年に当時のエコロジー省のペイザジスム大賞を受賞した大御所的ペイザジスト。ただコラジューはヴェルサイユ庭園学校出身ではない)らが都市計画家や建築家を押しのけて受賞した。また最近では、サルコジ政権下におけるグランパレ計画推進の流れの中で、2009、2010年と社会学者、経済学者が続いたが、今年2011年の大賞受賞者として、今が旬のペイザジストといえばこの人、ミシェル・デヴィーニュの名前が発表された。ミシェル・デヴィーニュは慶應三田キャンパスの新「萬來舎」改修で隈研吾とコラボレーションしたので名前は2011年ユルバニスム大賞に見事輝いたことでも記憶に新しい。
*(フランスも大統領交代で省庁の再編成と名称変更が行われるのでまぎらわしい。。省庁名が間違っていたらすみません)

ちなみに、1990年からConvention européenne du paysageにもとづき国家が隔年で選ぶGrand Prix du Paysage(後にTrophée du Paysageとなる)が存在し、当初はペイサジスト個人に対して、のちにペイサージュ計画に対して大賞を授与していたが、そちらは2007年でなぜかうちどめとなった。
また将来有望な建築家を選ぶ目的で文化庁が主催するフランス若手建築家の登竜門・ヌーボー・アルバムは、若手ペイザジスト部門も存在する。またエコロジー・持続可能開発整備相が発表する若手ペイザジストに対する賞制度などもあり、“ペイザジスト”を独立した職能として社会的に認知させる仕組みが整備されている。

そんな現状を考えると、こうした受賞制度が、ペイザジストを都市計画や建築の分野にとりこみ、一体化させることで、ペイザジスムの環境分野における重要化、つまりは政治化と、ペイザジストの地位向上が目指されていることは確かだろう。このように、フランスにおいてはペイザジスムが未来志向の国家政策の一部となる流れが存在する。

その他、建築の分野でも、例えば緑化建築でフランスのコンペや美術展でよく声のかかる、ボンサイ建築の大家、エドワール・フランソワのように、住宅にファナティックなまでに植物を植え込むデザインを行う建築家が活躍している。これは、コンペの植栽条項を満たすには効果的らしい。

続きはまた明日。

【参照】フランスの現代の都市計画とペイザージュについて林要次さんコメント

理想の風景とはなにか、と問うこと

パリのグランパレで開催中の企画展『Nature et Idéal: Le paysage à Rome 1600-1650』が閉会間近だ(Grand Palais, Paris, 9 mars- 6 juin 2011)。

このところ、パリの建築系の施設などでは(といっても数は限られているけど)景観や庭園に関する展覧会やレクチャーが相次いで行われている。これは何も偶然ではなく、1990年代の冷戦終了に伴う欧米圏における環境政策の共通問題化と、2000年代後半に始まる全欧的な環境政策推進の流れにあるだろう。フランスは2007年がサステイナブル・ディヴェロップメント・イヤーで、その後大統領の名の下に発表されたグラン・パリ計画は、都市居住と緑地確保をうたうものだった。

個人的には2007年にパリ都市計画研究所に留学し、所属した環境・景観ゼミで欧州やらDD戦略をあれこれと調べさせられ、ゼミ旅行でブラジルまで行かされたりもした。コルビュジエ的な、どこか原始的で魅力的な緑と太陽と人間の住まいのテーゼが再考されているということかもしれない。自然のなかでのびのびとくらしたい、というのが、動物的な南欧のひとびとの共通の思いなのだろう。

とはいえ、自然のある人間の暮らしは“理想的”風景をつくるのか。理想的な風景とは何か。

上記の展覧会を訪れたのは3月末のこと。展覧会としては、風景画の魅力を再発見し自然と共に暮らす生活を礼賛することが、企画者の意図ではあるだろう。しかし、当時は大震災の直後であり、わたし自身は、フランスにいて直接体験していない都市と自然の崩壊の映像が大量に押し寄せてくるのを、インターネット上で家族で日がなおいかけていた頃だった。なので、自然はなぜ人間のまなざしをひきつけるのか、という美術史的な問いはあまりにも悠長に感じられたし、むしろ、自然が崩壊する風景は、なぜ人間のまなざしをひきつけるのか、という問いの立て方のほうが、極東アジアで生まれ育った自分には、身近であり身につまされる思いが、した。

そんなふうに思うのも、メディアを通した日々の映像はもとより、展示空間に展示された“廃墟のインスタレーション”の記憶がよみがえるからだ。1996年に行われた第6回ヴェネツィアビエンナーレ建築展に出品されたインスタレーションは、1995年の神戸大震災の都市崩壊による廃墟風景の再構成、もしくは集団的イメージの再構成であった。磯崎新コミッショナーをつとめて、石山修武宮本佳明宮本隆司による日本館に展示「亀裂」と題された1995年の神戸大震災の都市崩壊をめぐる記憶された廃墟風景のインスタレーションは、金獅子賞・パビリオン賞を受賞した。わたしがその展示を実際にみたのは、ヴェネツィアではなく、それから数年を経過したたしか2004年に世田谷美術館で開かれた宮本隆司展の展示であったが、人工の建材を重ねたにすぎないとは分かっていても、都市の自然が秘める制御しきれない野生を崩壊する自然の風景がむき出しにする。自然が世界を破壊する本性としての野生のグロテスクさが風景として表出され慄然とさせられた。そんなことも思い出されていた。こうした鑑賞者の鑑賞体験が生まれるのは、現実の災害の地霊がなせるわざか、それとも建築家や写真家たちの構想力と構成技術の巧妙のなせるわざか、インスタレーションの感傷性だったのかは、判じきれない。ただ、見ていて身体の奥底をゆさぶられる感覚を覚えたのは確かだった。磯崎新が著作の中で初期からくりかえしてきたような崩壊の風景のもたらすトラウマが、映像ではなく目の前の物質/空間として現前して、展覧会の会場で共同体験となり感応を強いたのかもしれない。そんな崩壊の記憶を見るものに確信犯的によみがえらせるのは残酷な意思でもあり、芸術体験としては貴重かもしれないが、崩壊の風景は痛みを伴う消し去りたいけど消えない永遠の傷をつつかれたようで、幸せな美的経験とは単純に喜べなかった。

翻って、今年3月のグランパレで見た風景画の展示そのものは、あくまで知的かつディダクティックであった。17世紀前半、ローマにやってきた画家たちが残した絵画をあつめて、そこにヨーロッパの風景画の成立を見ることが基本的コンセプトである。ルーブルを含めた国内外の美術館から借り出された絵画群は、ルネサンス以降のヨーロッパにおける風景の表象の変遷を明快・整然にたどっていた。展覧会のサブタイトルにRome 1600-1650と銘打たれているのは、17世紀前半のローマというこの時代のこの場所において、ヨーロッパにおける“風景画”がひとつのジャンルとして確立されたという美術史上の通説に由来する。風景画がなぜこの時代、17世紀前半に確立したかといえば、そこにはこの時代にヨーロッパ世界を席巻した反宗教改革という歴史的背景が重なってくる。16世紀末のルターに始まる宗教改革は、カトリック教会による人間中心主義のルネサンスの揺り返しともいうべき反宗教改革の動きを誘引した。バチカン・ローマは、教会から離れかけた人心を取り戻そうと、ヨーロッパ中から芸術家を集めて教会堂や内部を彩る宗教画を発注し、聖堂内部を飾り立てた。こうして絢爛豪華なバロック芸術が発達し、サンピエトロ寺院の完成をはじめに、この17世紀前半という時期に現在のバロック・ローマの街並みが形成されることとなる。

そんな時代に、イタリア、フランス、オランダなどから集められたアーティストたちは、陽光輝くローマで真っ青な空の下で古代遺跡を眺めながら、野卑なまでに生命力に富んだ風景に刺激を受けて、その情熱を教会堂のクーポールに描きこんでいく。ローマで出会った風景への関心は、カラッチ、プッサン、ロランら、戸外での写生を通して、都市ローマの自然の風景を主題化した風景画を確立していく。自然に客観美をみる人間たちの心は、宗教画の画面上の神の子たちや聖人たちを背景においやり、自然を前景化し、独立したテーマとして確立していく。とりあげられた画家全34人中18人はイタリア国外からやってきた画家、また残りのイタリア人たちもそのほとんどが他の町からやってきたひとびとだ。古代の遺跡を多く残す古代都市の風景は、人間をひきつけ、美の創造/想像力をかきたてたことは想像にがたくない。

ヨーロッパの風景画の発展の臨界点となるの、戸外での風景の写生という、現代から見ればあたりまえに見える行為だ。写生は客観的な環境世界の事物をありのままに写し取ろうとする科学的に倣う行為であるが、自然を理想美に仕立て上げようとする意識が働くときに、それはあたりまえのことではない。ギリシアに範をとるヨーロッパ文化において、人工物にせよ人体にせよ、理想美が調和により得られるとすれば、16世紀の画家たちは戸外に出て自然環境に対峙することなくも、既存の絵画や版画を参照し、自らのキャンバスにそのまま模倣してバランスよく構成することで理想の自然美の実現を試みた。また、もしくは作例は少なかったが、自然災害は宗教画における風景表現のひとつのモチーフだ。そうした事象は神話時代の神の脅威として宗教画の中で連綿と描かれてきたのも、自然が崩壊する瞬間の風景はさまざまなドラマと宗教的官能をもたらすからだろう。

ところで写生という行為は、それではつねに風景の客観性を保証するのだろうか。

Paysageは、英訳するとLandscapeで、一般的には“風景”と訳される。美術用語としてはより限定的に“風景画”という一ジャンルをさすことが多い。風景が主観によって捉えた外部世界のあらわれであるとすれば、風景画は主観によって再現された外部の世界であるはずだ。しかし、人間存在の主観が客観的環境を認知する限り、絶対唯一の世界など存在するわけがないように、主観による構築の契機が介入する風景に絶対性など存在しえない。風景は、見る者の主観の分だけ切り取られ意識に表象されるしかたがことなるとすれば、理想的風景のありかたも、時代や文化、ひとによって偏差が生まれるだろう。

とはいえ、一点集中型の遠近法に基づくフランス式の整形式庭園と、移動による多視点型の日本的な回遊式庭園において、そこで表象される自然に対する文化的認識が異なるとされるとしても、文化における自然美は根本的に異なるといえるのだろうか。いずれにせよ、自然の全体性というのも程度の差こそあるとはいえ幻想性がつきまとう。環境としての自然は、多かれ少なかれ、主観により認識され意識に現われるときに再構成の契機を経ているものだからだ。

ひるがえって、大震災の映像を前に自問した、自然が崩壊する風景はなぜひとのまなざしをひきつけるのか、という問いかけをもう一度考えてみる。

たとえば廃墟を空間の中の物質にもちこまれた時間の中の形と考える。建物は本来静的な存在であるが、崩壊という契機がいやおうなく時間によって生じる形態的変化を表出させるからだ。すると、大地の上で物質と物質の調和状態を保っていた物質としての建物が、形のくずれにより、時間と空間を同時に変調する瞬間に、“廃墟”がうまれることに気づく。物質的な建物の崩壊は、時間の連続の中では免れえないが、問題はむしろ、統一したある世界に崩壊のひびめが入る際に、人間の制御不可能な時間のファクターが野生をあらわにすることだろう。

それでは野生とはなにか。それが文節以前の非言語的状態、名づけ以前の非理性な状態であるとすれば、崩壊とは静的な調和にもたらされた動的変調だ。風景画に描きこまれる廃墟は、ローマの古代遺跡を眺めていた画家たちが画面上の調和と変調の対照的バランスとして忍びこませたものだろう。ひとは自然にある調和を見出して安らぎを感じながら、人間という存在においては時間の有限性を体験的に知っている。むしろ時間が有限であるからこそ、世界の割れ目からのぞく野性に、刻一刻と迫る時間の果てをつきつけられ、慄然としながらまなざしをはなせないのかもしれない。崩壊は、時間という人間にとって制御不可能な要素であり、そこにおいては物質の限界に抵抗できない。

まとまりがなくなったけれど、最後に、それでは“理想の風景”とは何か。
ひとりひとりが認知する風景が異なるとすれば、理想とする風景も異なる、などという言い方はしたくない。というのも、やはり“自然”の風景がある共同幻想としての理想にもっとも接近しているように感じられるからだ。結局は、誰もが野生を秘めていて、自然の中に、許容される野生の表出を嗅ぎとっているからかもしれない。

パリのアメリカ人

ウッディ・アレンミッドナイト・イン・パリ』Midnight in Paris
ベルナルド・ベルトルッチラスト・タンゴ・イン・パリ』ultimo tango in Parigi



カンヌ映画祭のオープニングを飾ったウディ・アレンミッドナイト・イン・パリ』を近所の映画館でみてきた。この作品、フランスではサルコジ大統領現夫人で歌手のカルラ・ブルーニが登場することで話題を呼んでいる。イタリアの名門出で、スーパーモデルから歌手に転進し、現在43歳のカルラ夫人は大統領夫人が耳目を集めているのは2012年の大統領選挙に合わせた妊娠発表。DSK疑惑とあわせてココまで阿漕かサルコジ政治…かどうか分からないけど、そんなフランス的状況をカンヌ映画祭に合わせてとりこむウッディ・アレン監督の老獪さはたいしたもの。

肝心の『ミッドナイト・イン・パリ』のほうは、どうでもよいできだった。

【物語】ハリウッドで働くアメリカ人脚本家・ギルはブルジョワ育ちの婚約者・イネスと共に、イネスの両親の商用に付き合いパリを訪れるが、真夜中のパリで1920年代にタイムスリップする物語。パリで俗物的なハリウッド的環境に倦んで小説家を目指すギルが、会社経営者である両親や、偶然であったイネスの憧れの旧友ポールが象徴する華やかで知的でどこか書割的な世界から次第に排除されていく。ギルはイネスと別れてひとり偶然迷いこんだ町の界隈で、古めかしい自動車に乗せられ1920年代のパリへと連れて行かれる。ギルは、パリの文化の黄金期で、フィッツジェラルドヘミングウェイゼルダガートルード・スタインら、パリで最先端の文化を享受するアメリカ人の若い文学者たち、そしてピカソ、ダリ、ブニュエルマチスまで、夜な夜な訪れるカフェやサロンには文化人たちがあふれ盛んに議論を交わし交流を深めているのを目の当たりにし、婚約者たちから離れて過去の街へと夜な夜な訪れることになる。

『巴里のアメリカ人』はガーシュウィン交響曲ヴィンセント・ミネリなど、1920年代パリを礼賛するあアメリカ的なテーマだ。時代の象徴としての自動車が右から左へとテンポよく路上をすべるのにあわせて展開していく。歴史上の人物によく似た俳優たちがタバコの煙る室内でにぎやかに談笑する華やかな様子が画面に次々と登場していく。映画自体の破綻の少ないバランスよく安定した物語構成は、名監督の手馴れた手際ならではだろう。カンヌ映画祭で、ハリウッドから離れてパリ移住を夢見るアメリカ人脚本家を主役に据え、カンヌを見据えた観光映画としてフランス文化礼賛、パリ礼賛を前面化するウッディ・アレンの皮肉なあざとさが見事だ。とはいえ、作品の仕上がりとしては、よく言えば軽妙、正直なところ、ウディ・アレンが『インテリア』の頃に見せた心理に対する鋭利なナイフさばきと比べるべくもなく、表層的な皮肉にとどまり内容も深みも批評性も感じさせてくれない。そんな物語のつくりが、最近の巨匠の散漫さと低調さを感じさせた。

ミッドナイト・イン・パリ』において、パリの通りを右から左へと走りぬける自動車には常に運転手がついている。《アメリカ人》たちが土地勘の無い町でハンドルを握ることはなく、運転手つきの自動車に乗せられ、他者の意思により予定された場所へと連れて行かれる。彼らの移動や物語の展開は、彼らの意思によってではなく運転手=監督によって決定される。豪壮なオールドカーとシンプルな現代車という仕掛けも、また時間をつなぐ道もそこでは本質的には大差は無い。人物は《パリのアメリカ人》という、これまで何度も繰り返されてきた物語のプロトタイプで道を走らされているだけだ。そこでは道の選択は、右から左への二次元的な線しかなく、時間のもつ空間の深淵を予兆さえかいまみせてはくれないし、ましてや平板にしか描ききれてない人物たちが心理の奥底を見せることもなく、ただ、作品そのものの浅薄な限界値を示すにとどまった。

観光客としてパリの街角を訪れたことがあるなら、道を歩いているうちに、連続した過去の歴史が現前する瞬間に遭遇するような感覚は、一度ならず覚えた経験があるだろう。しかし、そこを歩くのみで時間の深淵にたどりつくことなどできるだろうか。あたりまえの自動車が運転手のいない自動車が目的地に向かって走ることは無いように、なんらかの意思が働かなければ人間の行為は決まらない。そして時間という道はいつでもでこぼこしていて上り下りの坂もあり、時には途切れ、眼前に崖が控えそこに飛び込まざるをえないことさえある。規定の道など、実はどこにもないからだ。ある状況下に置かれたときの人間の心理、反応、行動は、単に表面的な出来事によって自動的に決定するのではなく、その人物をめぐる描かれえない複雑に絡まりあう個別の背景や状況で無数の差異とずれがおりなされる。そこまで含みこんでの監督・俳優による物語作りが必要で、単に《ブルジョワ、ハリウッド→俗物》《1920年代パリ→憧憬》というありがちな図式では人物のリアリティを掘り下げる前に《ウッディ・アレンも所詮アメリカの映画監督》とレッテルを付けられて終わりだろう。

《パリのアメリカ人》の影の時間というべき道につきまとう深淵を描いた作品として、ベルナルド・ベルトルッチラスト・タンゴ・イン・パリ』1972が思いだされる(ベルトルッチ自身、若い頃にパリに移住し、その後ハリウッドで活動する《アメリカのイタリア人》だ)。

【物語】パリで安ホテルを営むアメリカ人がブルジョワ家庭のフランス人少女と匿名の出会いをし最終的に死に到る物語だ。

舞台となるメトロ6番線やエッフェル塔周辺は新興開発地だが、華やかな観光地のすぐそばの、周囲にすすけたしもた屋のような低層住宅を控えていたであろう。うらぶれた街角の空アパートでホテルという周辺的な空間を経営する異邦人は大都市の影の存在だろう。フランス人のブルジョワ家庭の娘という典型的な光の世界から来た存在が影の存在と邂逅するとき、60年代から70年代にかけての大都市開発の空間の裏表をあらわにする。二人の行動が衝動的に見えても断片的なせりふや映像、そして二人の身体に降り注ぐ影が、出会いがしらで身体を合わせ、最後の別れ際にタンゴ審査会場に乱入して踊るという、合理的にみればなんら必然性の見えない展開に、スクリーンのこちらに非合理であるからこその心理的な一体化をもたらすのだろう。空間は画面の表層を右から左へ走りぬけるだけでは、単にフレームイン、フレームアウトの処理のみですまされてしまう。人物は、正面から奥へ、その斜めへ、と、出現と消失を繰り返すことで、空間と時間が連なり非合理に錯綜する瞬間が初冬の灰色の空の下であらわになる。

主演のマーロン・ブランドは2004年に、またマリア・シュナイダーはつい先ごろ、2011年2月に亡くなった。主演二人を欠いた物語の道は途切れてこれ以上進展することはないが、状況がつくりだす人間の心理と行動が空間性、時間性と深い次元で結びつくことを示すときに、《パリのアメリカ人》という底抜けに明るい異邦人が巻き起こす観光映画のテーマも別の展開を見せることだろう。
しかし、この映画が40年前に製作されたことを考えれば、芸術や文化が進化論で語られえないことを確認するだけかもな。

2011年カンヌ映画祭

5月22日に2011年カンヌ映画祭が幕を閉じた。France Infoの中継でクロージングの受賞発表を聞いていた。パルム・ドール受賞はテレンス・マリック監督、ブラッド・ピット主演『THE TREE OF LIFE』、グランプリを受賞したベルギーの円熟監督・ダルデンヌ兄弟『Le Gamin au Vélo』(少年と自転車) とトルコの『Once apon a time in Anatolia』

下馬評の高かったアキ・カウリスマキ『Le Havre』がパルムドールを逃したことにリベラシオン紙は作品のクオリティの高さで選ばれるわけではない!…と批判した。賞レースなんてそんなものなのだろう。

ちなみに主催国・フランスの反応といえば、France Infoの中継を聞いていた限り、アメリカ勢が2冠をとったことにかみついていたのが、またか、と、印象的だった。
フランス勢は、審査員特別賞『Polisse』『The Artists』ジャン・デュジャルダンの主演男優賞の枠に滑りこませた。それに対し、アメリカ勢は、オープニングのウディ・アレン『Midnight in Paris』に始まり、パルムドール、主演女優賞を確保し世間の話題をさらっていた。そもそも『The Artists』でさえ20年代ハリウッドを舞台にした物語であるのだ。2011年カンヌはアメリカ・ハリウッド文化に席巻されたと印象はぬぐいがたい。審査委員長がロバート・デニーロだから規定路線…と言わんばかりの反応だったけれど。

ただ、フランスが愚痴を言いたくなる気分も分かるけれど、カンヌに出品されているフランス映画を見ていればこの結果はしかたないだろうな、とも思わせられる。フランスから世界の舞台に勝負をかけられるよう監督も大作も、この数十年、なかなか出てこないからだ。フランスの映画製作の現場を製作する人材は国立映画学校から輩されている。第1線で活躍する監督や映画製作を支える関係者の多くは、ごく若いときに国立映画学校に厳しい選抜をパスして入学し、ハリウッドを仮想敵とするような環境で名画をあびるように見て、卒業後は映画業界で働くフランス国内の映画芸術エリートだ。ただ、彼らが世界市場でどれほどの競争力をもちうるか、もしくは今現在で彼らのなかから世界の映画的才能に伍しうる人材がどれほど輩出されたか考えると、なかなか心もとない。

作品でいえば、例えば、近年フランス映画でパルムドールを受賞したのは2008年のカンヌ受賞作ローラン・カンテLorent Cantet『Entre les murs』(邦題:パリ20区、僕たちのクラス)だ。この作品は、移民問題、経済問題、近代ユルバニスムの破綻などなど、フランスで問題となるパリの郊外問題をはらむ地域で(パリ郊外と東京の下町とでは都市のあり方が根本的に異なるなど、)、そのテーマ設定と映画としての仕上がりのよさで、ミクロなテーマをマクロでヒューマンな物語に展開していた。ただ、佳作ではあるけれど地味な作品で、世界的な興行的大ヒットを誘発、達成するタイプの作品ではないし、また、現代フランス映画を代表する作品…!とは、2012年大統領選に向けて社会の保守化をあらわにするフランスの人々が主張したがるタイプの作品ではないかもしれない。

実際のところ、フランスは文化輸出国の体裁をとっているけれど、歴史的に見ればむしろ自国外から才能を集めて文化大国としてのし上がってきた文化輸入育成型の国家だ。フランス人やフランス文化がオリジナルな文化的才能を量産したというよりも、文化的才能を安値で輸入してフランス文化に上手いこととりこんでいく、ブランディング技術に非常に長けた戦略的な国家だ。次々と買収をしかけて巨大企業体にのしあがった現代のLVMHがその典型だろう。それを考えれば、フランスの現在の移民政策やフランス純化政策が長い目で見て文化を衰退させるのではないのか、という歴史的な危機感は生まれないのかな、とも思う。

しかし、少し話をずらせば、こと芸術分野にかぎる場合、賞レースが弊害をもたらす側面が明らかに存在する。賞レースにより恩恵、利益をもたらされるのはなにも善意の受賞者側だけではなく、レースというシステム存続が目的化されている場合、作者が賞を受賞する以上に、授与者が多きな利益を得るからだ。

賞賛のもつ見せ掛けの善意やポジティビズムの裏に、選考側の利益主義と自己満足、もしくはビジネスの思惑が働いている。受賞者がチャンスを生かして受賞を次のステップの足がかりにできればよいだろうし、それこそが賞を与えられ受け取るることの意義だ。ただ、受賞者もその周囲も観衆も、状況に飲みこまれて、クリエイティビティの本質を見失わされ、長期的には何も残らないもたらされない状況にさらされることもある。映画祭はフィルムの買い付けを目的に世界中の配給会社が集まるビジネスの場という前提がある。カンヌが華やかなイベントであり、また過酷なビジネスの現場だ。そこは、クリエイティヴィティを売り買いしスポイルする場でもあるのだ。作品そのもののクオリティが高ければパルムドールを受賞するわけではない。むしろ受賞がもたらす付加価値で作品の商品価値が格段に跳ね上がるビジネス効果があることが重要だ。

そんなことから、映画に限らずどんな分野であれ、くだらない作品を名作と主張して、見事に賞を与えてしまう交渉力をもつ選考委員は世の中数多く存在する。周囲で見守るしかない鑑賞者としては、受賞作に対して受賞という事実以上の賞賛を送ることには懐疑の思考回路を温存するか、せめてためらいを感じていられるひねた健全さを保っていたいとも思う。受賞事実が作品のクオリティを絶対的に保証するわけでは無いことが頭では分かっていても、人間は華やかさや世間的な目に流されがちだからだし、判断の権利を平気で放棄する人間は多い。結局は自分の目で作品を確かめて自分自身でその価値を判断していくことのほうがずっと重要なのだけど、常に自分の中のナイーブな懐疑心を確認して生きていこうとは思う。

『赤い砂漠』@パリのシネマテーク

ミケランジェロ・アントニオーニの1964年監督作、『赤い砂漠』をパリのシネマテークで見ました。アントニオーニ初のカラー映画である『赤い砂漠』ですが、色彩を手に入れたアントニオーニの素直な興奮がスクリーンいっぱいに満ちているのが好印象の作品です。以下、覚え書として。

●色彩の実験場
『赤い砂漠』は色彩の実験場に足を踏み入れたような新鮮な驚きと興奮に満ちている。同時代のパゾリーニは『赤い砂漠』を映画館で見て、その色の実験に対し好印象の評価を述べた。CG全盛の現代人の目から見ると、ナイーブな印象はいなめないけれど、手間をかけて絵の具でぬられた撮影現場の悲喜こもごもの様子を想像すると、実験だからこそできるスピード感はきもちがよい。

●都市空間と風景の変化
『赤い砂漠』の舞台となった古都ラヴェンナアドリア海にのぞみ、古代ローマの艦隊根拠地として発展し、西ローマ帝国の帝都、東ゴート王国の首都として繁栄し、16世紀はじめにローマ教皇領となった。内陸側に建てられた中世のビザンチン式モザイク教会堂は世界遺産にも登録された美術史上の名跡である。
60年代のアントニオーニはそうした歴史遺産にキャメラを向けることはない。現在は工業都市として煤煙に曇る沿岸の工場地帯をスクリーンいっぱいに映し出させた。アントニオーニにおいては、解体間近の廃屋や工事現場など変化が進行中の場と近代建築が対置された。真新しい風景は逆説的な過去の風景の変化のモニュメントとして対置した。
自然が改変され都市が近代化により劇的に変化するのはただ一瞬だ。その変化の一瞬にキャメラを向けたのがアントニオーニであったとすれば今、この瞬間にしかない都市空間や都市風景の変化の時間や瞬間はどのように描かれたのか。そこに現代芸術における都市の表象体系がかいまみえるかもしれない。都市は自然にわけいり自己を構成する。風景は時の移ろいで瞬間に変化する。植物は生命として成長し加齢する。自然は人為で制御されひとつのイメージを保つことができるとしても人間が自然を完全に制御することはできない。むしろ人も都市も自然により制御されるとさえ見られるだろう。消え去った過去の記憶をとどめようとするモニュメントは逆説的な懐古趣味であり、または都市空間の蓄積なしには思考を出発しえないイタリアという場所ゆえでもあるだろう。ムッソリーニ時代にローマ南郊に突如あらわれたEURでさえ、それは古代ローマ帝国になぞらえられることでスタティックな都市風景にとどまることはできない。過去の記憶を現在の風景につなぎなおすことがアントニオーニの映像作家としての矜持であるとすれば、それは景観作家の教示でもあるかもしれない。
風景は常に変化する。当たり前のことだけれど、風景や空間の変化は必ずしもすべての作家の第一の関心事ではないし、こまかな人間関係や感情の機敏よりも空間や風景に専念する物語映画というのはそれほど多くはないだろう。わたしたちの時代の都市空間においては、たとえば経済の自由化と近代化により急激に変化する中国を描くジャ・ジャンクーや、解体を間近に控えるリスボンの移民街にキャメラをもちこみスラムの貧困状況を記録したペドロ・コスタが都市空間の変化に鋭敏なまなざしをむける。
64年において環境問題は一般的な話題ではなかっただろう。とくに敗戦国イタリアは50年代を通じて社会、経済を建て直し、60年のローマ五輪を経て空前の経済ブームを迎えていた。『赤い砂漠』の撮影された時代においては、一般にはローマの繁栄はいまだ継続すると信じられていた時代であっただろう。そんな中で、工場が海辺を汚してヘドロを垂れ流し煤煙が空気を覆う現実をうつし、公害問題がクリアに映し出していたことは映画作家アントニオーニの先見性として評価してもよいだろう。アントニオーニは同時代の社会問題を取り上げ近未来における破綻を予測しつづけてきた。
同時代の社会問題を描くことは、アントニオーニの出自としてのイタリアン・ネオリアリズムの作家には共通したことだった。しかし著しい違いとして、ネオリアリズムの作家たちがイタリアの庶民生活をミクロの視点から取り上げたのに対し、経済学部出身のアントニオーニは経済活動の現状をよりマクロな視点から経済問題を取り上げたことがある。だろう。左派系インテリとしてのアントニオーニは、バブル絶頂の時代にローマの株式市場の混乱を描き来るべき経済破綻を予見していたし、ハリウッド進出後の『さすらいの二人』ではアメリカにおけるレジャー開発の矛盾を取り上げた。

●水辺の風景
色彩は精神状態を、どのように、どこまで、表現しうるか。
色は単純な物理量ではなく、生理的、心理的な感覚量であり、物体の色は表面からの反射光であり、その明るさは反射率により決まる。ひとつの色はさまざまな波長の色を加減して作ることができ、混色の方法も一義的に定まらない。赤、緑、紫の三原色の色刺激に感じる3種の受光器が眼に存在するとすれば、受光器が破調を示すと、世界の見え方も、認知された世界もかわるだろう。
自動車を運転中に事故を起こしたジュリアーナは怪我はなかったがノイローゼに陥り、幻聴と幻視にさいなまれるようになった。自らの分身としての子供さえジュリアーナにとっては自家中毒のように精神を乱す存在となる。ジュリアーナの心の変動は、スクリーン上において、ジュリアーナの眼を通して認知された世界という環境のもつ色の変化で表出される。その状態は、水面にひとつぶ落とされた色彩のようにたゆたいまどろい混乱している。水は場所や温度や流れを変え、束の間の平穏も急激な変化で簡単に乱されてしまうようにだ。
水面にうつりこむ色彩は光の反射により不変でありえない。固定の意味など定めえない、世界の完全な解釈など不可能であることを思い知らされるときに、世界をいろどる色彩にもいくばくかの狂気が隠されていることに気づく。対象世界の抽象性にむきあったとき、恣意的な現実と虚構の区別ができるとして、現象は次の瞬間には消え去るし、たいがいは存在の証明など残らない。
しかし、自然は意味を剥奪された環境であるように、水は抽象的だ。わたしたちは水の表情に感情や意味を読み取ることができるだろうか。
水が環境であるとき、わたしたちはそこに平穏を覚える。しかし、水が、いったん境界線を超えて意思を獲得したかのように激しさをますとひとは恐怖を覚える。だから、そこに堤防を築いてせきとめようとする。水は世界の風景を反映する。水は世界を飲み込む。水面は人間を飲み込む。物質としての水は、飲まれ、汚され、捨てられ、消える。
自然が関係性により認知される現象であるなら固有色などありえないかもしれない。野生と自然の境目の狂気が色彩の解釈を拒否するとき人格は破綻する。水面に明確な境目をつけるのは水そのものではなくあくまでも環境という絶対的な外部だ。水は都市の野生であり、色彩を混乱させて都市の表面に混乱をむき出しにする。整然とした都市空間に残された破綻や混乱に視線を奪われるゆえんだ。
水辺の風景は工業化により大きく変化を遂げた。水は人間の生命に欠かせない。水辺は、人間の生活と切り離せず、文化や文明の発達に伴い整備が行われ様々な変化が加えられた。
同時に、水は、聖なる風景を構築する存在として長らく信仰の対象であった。光を浴びて闇を映しこむ物言わぬ水は、普段は瞑想をいざなう静寂をたもつ。それは人間にとって穏やかな客体的環境だ。しかしいったん主体性を得てしまえば、容易に決壊し人間も自然も飲み込んでしまう。水のもつ静けさと獰猛さという矛盾した統一性にひきつけられた芸術家は多いだろうし、アントニオーニもそのひとりであったろう。アントニオーニは映像の上にごく穏健かつ控えめに水辺を記録しつづけたように見える。しかし映し出された水は人間にむけられた刃にみえる。アントニオーニの関心は工業化で新たに生まれた沿岸側の工業地帯の色とりどりの煙突とそこから排出される煤煙であり、かれはてた松の木立だ。

ヴェネツィアビエンナーレ
2010年のヴェネツィアビエンナーレで近藤哲雄+マティアス・シューラーが発表したCloudscapeは工場をリノベーションした会場に噴霧を焚くことで現出したオブスキュアな風景である。見通しのきかない閉ざされた空間で、吊り廊下を登り、降りる体験を経て、出口という一定のゴールがあるとはいえ、そこにはやはり何も現出してこない。北イタリアの寒々しい風景の中に、主人公ジュリアーナの夫である技師ウーゴが責任者をつとめる大型工場であり、現代の目から見れば、逆に76年に竣工しいまやパリの顔ともなったポンピドゥーセンターを思いださせられる。アントニオーニはヴェローナの工場地帯はもとより、フェッラーラ、メディチーナの高圧線の工事現場や、反転して南洋の青い海と白い砂浜をうつすとき、カメラの焦点距離をのばし、デフォーカスにより、抽象画のような曖昧でぼやけた風景を作り出した。それは人間自身の眼に擬せられたキャメラの操作である。こうした世界観を映像として実現するには、単に北イタリア特有のぐずついた空にキャメラを向けて事足りるわけではもちろんなく、オープニングのデフォーカスがその後の鬱屈とした灰色の画面に意味と彩をそえる。さらに、路上の行商のカートに載せられたりんごはすべて、静物画のりんごのようなにび色のペンキで塗られていた。ホテルの室内は、不貞の時間を終えると、身体の充足をあらわすようにほんのりとしたバラ色にそまる。カーテンやベッドシーツからベッドヘッドまで色が塗り替えられる。『赤い砂漠』において、ジュリアーナの心象風景は色彩によって表現される。これは撮影現場では当然のことながら物理的な作業が行われている。アントニオーニのこうした緻密な計画に基づく撮影は、ときに現実と物語の間の破綻を生む。アントニオーニの即興に基づく演出は登場人物のぎこちなさをいざなうし、俳優たちの反発を招くことにもなる。コラドを演じたイギリス人俳優のリチャード・ハリスハリー・ポッターの魔法学校長役)はクランクアップを迎えないうちにイタリアの地を去ってしまい、はりぼてのような曖昧で異様なラストシーンが生まれた。アントニオーニ的“不条理”は、監督の現実との闘争と撮影の困難さの結果でもあり、こうした破綻は意外とアントニオーニ自身の現実に対する不器用さと現実の状況により決定され、フィルムの操作で破綻をごまかしおさまりをつけているともいえなくもないだろう。